桑原茂一(CLUB KING代表)

『80年代、私は筋金入りの「ダモン・ブラザース」だった。つまり自覚なしのピエロのこと。』

オレが受けた衝撃をどうやってラジオから伝えようかっていう。それがたぶんスネークマンショーの愛のすべてだと思うんですよ

★YMOの『増殖』(80年リリース)に参加したことで大ブレークした“スネークマンショー”ですが、当時、音楽とブラックジョークを合体させるという発想はどんなところから来たものなんですか?

「まあ、基本は音楽番組ですから。(※『スネークマン・ショー』は76年春から放送していたラジオ音楽番組。小林克也がアメリカのディスクジョッキー(DJ)ウルフマン・ジャックを真似て曲を紹介。その後、俳優として活動していた伊武雅刀が加わり、ショートコントを織り交ぜるというスタイルになった。放送局を変えながら1980年まで番組は継続)。たとえば日本でいちばん最初にセックス・ピストルズがかかったのはスネークマンショーだと思うんですけど、あの時はたまたま私は77年(のパンク勃興の時代)にロンドンに行ってますから、現場を観ているので自分の中がささくれ立ってるわけですよね。髪の毛もツンツンで(笑)。そういう気持ちを持って、その曲をラジオでどうかけるかっていう想いや、オレが受けた衝撃をどうやってラジオから伝えようかっていう。それがたぶんスネークマンショーの愛のすべてだと思うんですよ」

★へえー。

「だから(スネークマンショーを聴いて)みなさんが“お笑い”って言ってるものって、オチを作るための笑いじゃなくて、曲と曲を繋ぐためのブリッジ、つまり“ジングル”なんですよ。その瞬間のエネルギーで次の曲をいかに際だたせるかっていう。そこを極めるっていうのが自分の中では一番ポイントだったわけで。だから最初から、ここで笑ってくださいっていうコントを作ってるわけではないんですよ」

★なるほどね。

「たとえば、ちり紙交換と選挙カーが路地でぶつかりあって、お互い頑張るからうるさくてしょうがないじゃないですか。僕らその頃、深夜型の生活してるから、もうたまんないわけですよね(笑)。寝たばっかりなのにみたいな(笑)。怒り爆発みたいな(笑)。この怒り爆発の『ふざけんなー!』ていうのと、ピストルズの『ふざけんなー!』が合体するわけですよ」

★ははははは。

「結局それが笑いっていうことになってるんだけど、衝動としてはそういう感じですよね」

★なるほどねー。それを茂一さん、小林克也さん、伊武さんの3人で作っていくんですか?

「ただ私がOK出さないと(そのテイク)は使われないわけだから。僕は(芝居は)素人なんだけど、瞬発力の塊のようなものは欲しいから、それが出来るまではOK出さないんですよ。だからスタジオから(小林)克也さんと伊武(雅刀)ちゃんが『上手くいったよなあ』みたいな顔して出てきてもオレが暗〜い顔してるから、『あ、ダメなんだ?』みたいな(笑)」

★ははははは。

「『じゃ、もっかい行きましょうか』ってなって、終いには喧嘩になって『(いまのテイクの)何が悪いんだよ! どうすりゃいいんだよ!』みたいな感じになって、シ〜ンみたいな(笑)。もう何度も分裂しかかりましたよね」

★そうなんですか?

「私も彼らに説明できる言葉を持ってなかったし。たとえば『前の芝居と、その前の前の前の芝居と、どう違うんだ?』って言われても、『なんかこう、降りてきてないんだよねえ』みたいな」

★感覚的なところなんですね。

「そう、でもその内『キタッ!』て瞬間があるんですよ。その『キタッ!』ていうのを経験してるから、来ないときはやっぱりOK出せないんですよね。でも、たぶん繰り返し(レコードで聴くの)に耐えられるっていうのはそこなんですよ。普通にきれいに芝居していれば、それで芝居は完成してると思うけどスネークマンショーのあの妙なエネルギーの塊っていうのは、そういうことじゃない何かなんですよね」


バスキアが来てるかと思えば、ジョン・ライドンも来るわ、ありとあらゆる人が毎晩来てね……すんごいストレスですよ、ほんとに(笑)


★この後、82年にピテカン(トロプス・エレクトスという原宿のクラブ/中西俊夫のインタビュー参照)が始まるわけですね。

「そうですねえ。やっぱり海外にみんな目が向いてましたから。日本にはおもしろいものはなくて、すべておもしろいものは向こうから来るっていう時代だったんで。で、ニューヨークにもロンドンにも必ず行くべき場所(クラブ)があるんだから、東京にもないとねって気持ちがあってピテカン始めたんですけどね。 それと(中西俊夫と佐藤チカが81年に結成したユニット)MELONがライヴをやる場所がね、相変わらずライヴハウスしかなかったので、あたらしい流れをやっぱり作らないとっていう気持ちもあって」

★なるほどね。

「でも、ほんとに日本に来た人たちはみんな来てくれましたよね。ただ私もあんまり人付き合いが得意な方じゃないんで、しかも英語もそんなに達者じゃないから、かなりストレスでしたねえ---------(ジャン・ミッシェル・)バスキアが来てるかと思えば、ジョン・ライドンも来るわ、毎晩のように有名人が来るんですが……すんごいストレスですよ、ほんとに(笑)。向いてない仕事をやりましたよねえ……」

★(笑)向いてませんでした?

「まったく向いてませんねえ。トシちゃんは向いてるんですけどね、社交的だし、英語も上手いし。どっちかっていうと僕は裏方ですからね。でも当時ピテカンではとにかくトシちゃんと一緒に下らないことばっかりやってましたよね。トシちゃんはもう、思いついたら何でもって感じでしたから。それがどのくらいお金がかかるかとか、どのくらい人材が必要かとか考えていませんからね。でも大概のことはやったんじゃないですかね」

★へえー。

「その当時お客さんにパーティーの案内とか出すときにも、下らないこといろいろ考えてやってて、ある時ですね、『ピテカンの奥の方を掃除してたらすごいものが出てきたんで、みなさんにお裾分けします』とか書いた文章で(笑)、開けたらパタパタパタッて音がする仕掛けがあるんですよ。それがパタパタパタッて鳴って開けたら粉が入ってるだけなんですよ、白い粉って小麦粉なんですけどね」

★わはははは!

「だけど、みんなは『えー!?』みたいに、ほんとにビックリしたらしくて(笑)。後でみんなにすっごい怒られたの覚えてますよ。水商売の人間がこんなことやっちゃいかん!みたいな、真剣に怒ってました」

★ははははは。

「僕達は筋金入りのダモンブラザースですから『いいんだもーん』で終わらせちゃうからね(笑)」

★ははははは。

「何かあると『いいんだもーん』ってごまかしてましたからね(笑)。懲りずにね、『真面目にやってんか、お前ら!』みたいな(笑)」

★(笑)。

「でもいまって、そういうホントの意味でプリミティブでクリエイティブなものが出てくる土壌が逆になくなっちゃいましたよね。完成されてお墨付きがついて、値段がはっきりしたものばっかりですよね。それは僕からしてみると面白くないですけどね」


本来のクラブカルチャーにあった、まだ見たことのない何かが生まれてくるんじゃないかっていう、その可能性はやっぱり諦めたくないなって


★(フリーペーパーの)『dictionary』は来年で創刊から20周年を迎えるんですよね?

「そうですね。87年創刊ですから。もともとは自分がロンドンのクラブカルチャーが好きだったこともあってロンドンのシーンを東京に持ちこもうとして始めたんですよね。ただ、日本にはシーンがゼロだったわけですから、だから経済(ビジネス)として成立していないものを記事にするっていう雑誌が当時皆無だったので、自分たちで作らざるを得なかった感じですかね。フリーっていうことは、タダで配ることでもあるんだけど、もうひとつやっぱり、金では買えないものを作る。という気概も半分ギャグですが、あったのかもしれないですね」

★なるほど。

「たとえばロンドンのシーンのライフスタイルって、バンドひとつにしてもね、ミュージシャンがいて、マネージャーがいたりローディーがいたり追うレスがいたりしますよね。だけど日本ってミュージシャンがすごく高みにいて、それ以外はみんな家来みたいな社会じゃないですか。でも向こうってみんなフラットなんですよね。それがすごく新鮮で羨ましかったし、自分たちもその方が自分たちらしいなって。なのでA to Zで毎回26人が登場する編集スタイルはそこから始まったんですね。つまり、その人が有名だろうかなかろうが、同じように登場するスタイルを作りたかったっていうのは変わりの利かない個人を尊重するという姿勢ですね。」

★でも20年続けるって、ものすごいエネルギーですよね。

「実は、今年の6月くらいにウェブでアーカイヴを公開するんですよね。それまでには1号目から50号目まで全部アップするんですよ」

★えー、それはすごい!

「今年中には全部上げようと思ってるんですよ(笑)。これでやっとdictionaryと名乗った意味が出てくるかなあと思ってるんですけどね。『未来を明るく照らす知恵』なんて無理矢理かっこいいこと言っちゃってますけど(笑)、やっぱり長く続けてると、20年前に起こったこととか、あの当時何かやってた人たちがいまこうなってるって見ていったりすることって、これから何か始める人たちにとってはいいヒントになるんじゃないかなと思うと、それはもしかしたら知恵とよんでもいいかもしれないとかね。長くやっててよかったなと思うところですね」(※『DICTIONARY LIBRARY』 公開中)

★素晴らしいですね。

「あと、いろんなジャンルの人間が集まることってすごく大事だと思うんですよ。そういえば今度、坂本龍一さんたちYMOの3人が発起人で“MORE TREES”っていう中間法人を一緒に立ち上げて、植樹とか環境へのアプローチを始めていくんですけど、そういう動きの中でたまたまこの本を読んでいて(※『魂の森を行け 3000万本の木を植えた男』一志治夫・著/新潮文庫)、この人がいいこと言ってて、『混ぜろ混ぜろ!いろんな木を混ぜて植えろ』って言うんですね。本当の森にするにはランダムに植えていかないとダメなんだけど、日本って“海岸は松”ってなったらどの海岸も松みたいな、集まりやすいものを集めてしまうところがあるんですよね。これが良くないって書いてあって、『それ、クラブカルチャーと一緒じゃん!』みたいな(笑)」

★ああ、そうかそうか。

「だからレゲエが好きとか、ハウスが好きとか、ラップが好きとか、そうやって(ジャンルで)何もかも分けていったら、ある程度までは行くんだけど、いずれ自滅しちゃうんだよね。どんどんつまんなく伝統芸に朽ちていってしまうんですよ。だけど本当はひとつの場所に混ざって全部が入っていれば森に成長するように、お互いが競争し切磋琢磨していけば新しいものを作ることの意味が違ってきたと思うし、本当の意味でのカルチャーに成り得たかもしれないんですよ」

★なるほど。

「やっぱり自然から教わることが人間にとってものすごく必要なことばかりで、それをちゃんと大事にしていれば最悪のことは起こらないっていう、そういう本能をもう一回獲得していかないとって思いますけどね」

★まったくその通りですね。

「まあ、本来のクラブカルチャーも、いろんな人たちが垣根を越えて集まって来ることによって、まだ見たことのない何かが生まれてくるんじゃないかっていう、その可能性に賭けたわけですから、そこはやっぱりまだ諦めたくないなって」



80’s お宝紹介

 これはトシちゃんが個展用の作品として、トシちゃんがアイデア出して、岡山の石職人さんが作ってくれた、MELONの御影石で出来たレコード・ボックス。レコードも御影石で出来てて、でも落としちゃって割れてしまってますけど。材料費だけで20万円かかってるんですよ。私が材料費を出しました(笑)。出させられたって言った方がいいかも(笑)。もちろんこれ一品しかないですよ。  その時の個展は、これと、あとはブラックライトで光る蛍光ペンで描いた絵の作品でしたね。そのとき私も自分がサジテリアス(射手座)だから、サジテリアスの絵を描いた一点ものを買ったんですけど、その時は綺麗じゃない? でも消えていくんだよね(笑)。蛍光ペンだから(笑)。いま、もう、かなり見えないですよね。

あとトシちゃんが作ったのでおもしろいのが、スネークマンショーの『核シェルター・ブック』。本を包む側を鉛で作ろうって言い出して、それで作った鉛用の型ですね。でも、そんなのできるわけないじゃんって怒られて(笑)。本屋さんに並んだときは苦肉の策でこうなりましたけど。









インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹


桑原茂一
Moichi KUWAHARA

桑原茂一 選曲家/プロデューサー/株式会社クラブキング代表。 1973年より米国『ローリングストーン』日本版を創刊号から運営、 '77年『スネークマンショー』をプロデュースしYMOと共演、 同年『コムデギャルソン』のファッションショー選曲を開始する。 '82年原宿に日本で初のクラブ『ピテカントロプス』をオープン、 '89年フリーペーパー『dictionary』を創刊、 '96年東京SHIBUYA FMにて「club radio dictionary」を開始する。 '01年の911を機に発行された坂本龍一氏とsuspeaceが監修する『非戦』に参加したのをきっかけに、 独自の世界観をコメディという切り口で表現する「コメディクラブキング(CCKing)」を展開。 現在、フリーペーパー/コミュニティラジオ/TV/携帯サイト/映像表現/コメディライブ、 またそれらを統括するWEB「メディアクラブキング」をプロデュースし、 LOVE&PEACEに生きるオルタナティブなメディアを目指し活動を続けている。

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