★まず生年月日を教えてください。
「1967年11月26日です」★そうすると80年代は13歳からかな?
「たしかオレが中学一年のときに、もう人民服(ファッション)だったから---------」★ははははは。
「YMOの“テクノポリス”ね。小学校6年くらいからそんな感じだったから、もう中学時代はYMOにどっぷりでしたよ。いま実家帰って写真見ると、もうテクノカットしてたもんね、中学2年で」★へえー。
「青梅のど田舎で何やってんだってまわりに言われたけど、同じ不良扱いされましたね。ツッパリもテクノも同じみたいな」★(笑)ずっと青梅なんですか?
「小学校、中学校と青梅市で、高校から都内の高校に通って。日大鶴ヶ丘ってところですけど。大学はそのまま日大芸術学部で、この辺までが僕の80年代なんじゃないですか? 22歳くらいまで」★中学・高校・大学、全部で80年代だ。
「だから計り知れない影響力があるよね。実は僕の親父は元プロ野球選手だったから、小さい頃から野球漬けにもなってたんですけど、反面、やっぱり中学の時にYMOに影響を受けて。気が付かない内に夢中になってたって言うか、あれこそはまってたって感じでしたね。とにかくYMOがすべてだったから、小6から中3までずっと。家のふたつ上の兄貴もYMOにはまってて、その存在がすごく大きくて。シンセサイザーって楽器を生で弾いて初めて聴かせてくれたのは彼なんですよ。そのときの衝撃はでかかった!」★その頃シンセ持ってるって、けっこうすごいことだったよね。
「そうそう。もう生で聴いてびっくりして、その頃から音楽を意識して聴きはじめましたね。YMOのインタビューも全部隅から隅までチェックして、その言動からクラフトワークを知ったし、ニューロマンチックスとかUKの音楽シーンを知ったのもYMOのおかげだし、横尾忠則とかアートとかいうものも知ったし、そこからばーっと拡がっていったんだよね」★なるほどね。
「細野さんがインタビューで『僕はいまビデオに興味があって』って言ってたから、それで映像に興味持ち始めて、それがナム・ジュン・パイクとか現代芸術のビデオアートにも拡がって、そんなのもあってオレは映像でやっていこうかなって思って中学の時から自分は日芸(日本大学芸術学部)に行くんだって決めてたし、だから日大の附属高校にも行ったし、実は全部計算通り(笑)。実際その通りになっちゃったからびっくりしたんだけど(笑)」★YMOで進路まで決まったんだ?
「そうそう。とにかくYMOみたいになりたい、アーティストになりたいっていうのが夢だったよね。それが自分の人生の中の第一回目の衝撃でしたね」★ちなみに野球も続けてるんだよね?
「中学、高校と野球部でしたよ。高校野球は甲子園行きそうになったもんね」★丸坊主?
「高校は丸坊主、丸坊主。テクノカットしながら丸坊主(笑)」★ははははは。でも野球部の練習って厳しかったんでしょ?
「甲子園出てる高校なんで部活も本格的で、練習の量も半端じゃなかったですよ。厳しいし部員の数も超多いし。でも僕はベンチ入りしましたよ。で、それをやりながらも、プラス、アートとかもすごい好きで、バンドもやりたくてしょうがなくて。だから野球部の練習ですっごい疲れてるんだけど、オレ一人で六本木のシネヴィヴァン行ってさ」★ははははは。
「学生服に坊主でモロ野球部って格好なんだけど(笑)、オレひとりで眠い目こすってシネヴィヴァンに実験映画とか観に行ってましたよ。もちろん野球部の中にそんな話できるやつなんていないし。だから野球部の中でオレだけ『早く引退してえ』ってずっと言ってた(笑)。3年の夏に負けたらもう終わりでしょ? そりゃ甲子園目指して頑張ってるんだから、負けたら悔しいんだけど、オレだけ心の底で『早く負けろ〜。負けてあしたからオレはバンドやるんだ!』って(笑)」★はははは。
「あと当時は日本のインディーズバンドにすごく優れたバンドがいっぱいいたから、ライヴハウスに観に行ったりとか」★ライヴハウスも行ってたんだ? よくそんな厳しい練習の後にいろいろ行けたねえ。
「練習終わったらとにかくひとりでぱあーっと帰ってたね。ライヴハウスもひとりで観に行ってた。サディサッズとか町田町蔵とかじゃがたらとか。新宿ロフトとか渋谷のライヴインとか吉祥寺のバウスシアターとか行ってましたねえ」★ライヴハウスはおもしろかったよね。
「とにかく東京のYMOまわりの音楽シーンがかっこよすぎてさ。ニューウェイヴ一色だったね。そういう憧れの部分から、高3で野球部引退してから今度は自分たちでもバンドをやるようになって、いつしか自分もこうなりたいっていう夢に向かってずっと邁進して。大学に入ったらまわりは同じようなアーティスト志望の連中がいっぱいだから、夜な夜なアートの話ばっかりしてましたね」「実は大学2年の春休みを利用してタイ、インドに旅行に行ったんですよ。美術学科に先輩がいて、その人がインドから帰ってきておもしろい話をずっとするわけ。あー、オレも行きたいなあと思って。で、これも偶然なんですけど、最初カルカッタに着いて知り合った人が『GOAって知ってる?』って言ってきて」
★はははは、いきなりGOAに結びついちゃうんだ?
「一回目からいきなりGOAなんですよ。オレ全然何にも知らないし何の予定も立ててなくて、とにかくインド行ってもう圧倒されまくり? うわっ、いったいここ何なの?みたいな。もうワクワクワクワクしてるわけ。何もかも新鮮で。で、最初オレはリシケシとかバラナシとか聖地をまわってそういう勉強もしたかったんだけど、ところがどっこい、なんかパーティーみたいなのやってるすごいところがあるからって、カルカッタから電車に乗ってまずGOAに向かうことになって。鈍行列車で普通の車両にぎゅうぎゅう詰めになって、3〜4日かかったんじゃないかなあ」★いきなりGOAだったとは知らなかったなあ。
「そうなんですよ。で、辿り着いたら、何だここは!?、みたいな(笑)。パーティー行ったら、パンクの兄ちゃんはいるわヘビメタの兄ちゃんはいるわヒッピーの人たちはいるわ、とにかくいろんなかっこうした思い思いの人たちが踊ってるわけ。その頃からアシッドハウスみたいなのがかかってるんだけど、実はオレは全然ピンとこないわけよ、なんでインドで四つ打ちのピコピコサウンドなのか」★そうだったんだ。
「そのときはそんな感じで東京帰って大学3年になり、今度はアフリカ料理屋でバイト始めるんですけど、そこで初めて知り合った友達に渋谷のクラブですごいDJが回してるから一緒に行こうってことで連れてかれて。オレはディスコなんて興味ないとか言ってたんだけど、そしたらそこで回したのがDJ K.U.D.O(※現在ARTMAN名義で活動中)」★そうだったんだ。
「いまでも憶えてるよ。その時ってGOAで鳴ってたピコピコの音楽が頭にこびりついてて、探してもどこにもそんなレコードなくてさ。それなのにGOAで鳴ってたのと同じ音楽をものすごくいいサウンドシステムでかけてるわけよ。あ、これってGOAで聴いたのと同じじゃんって衝撃受けて。だからGOAって存在、DJ K.U.D.Oって存在は、オレの人生の中でYMOに続く第二の衝撃でしたね」★そこからツヨシくんもDJ始めたんだもんね。じゃあ、こうやって振り返ってみて、80年代ってツヨシくんにとってどういう時代だったと思う?
「うーん、僕の青春時代(笑)、自分のいまに至るための基盤とか基礎を形成してくれた時代かな。だから、あの80年代がなかったら、いまのオレはないよね。ていうくらい重要な時代ですね■80’s お宝紹介
これはYMOの2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)が出た後にリリースされた坂本龍一のソロアルバム『B-2 UNIT』(1980年)。当時まだ13歳とかで、たしか親にお金を借りてものすごく期待して買いに行ったんですよ。LPが2,800円でしたから、いまの輸入盤より全然高い(笑)。
で、さっそく買って家に帰ってワクワクしてレコードに針落としてみるんですけど、出てくるのは実験ノイズみたいな音ばっかり。「何だこれ!? 失敗したあ!」みたいな(笑)。お金はかかるし、わけわかんないし(笑)。ただ、5年後くらいに何かのきっかけで聴き直してみるんですよ。そしたら、すごい!、みたいな(笑)。そこではじめてこのレコードの価値がわかったっていう(笑)。中1の僕には難しかったみたいですが、結局はすりきれるまで聴き込んだアルバムですね。
もう一枚はYMOの高橋幸宏とムーンライダースの鈴木慶一のユニット、ビートニクスの1stアルバム『EXITENTALISM〜出口主義〜』(1981年)。これは最初に聴いたときからすごかった(笑)。このアルバムジャケットもジャン・コクトーの映画『美女と野獣』のワンシーンをもじったもので、それを川崎の工場地帯で撮るっていう、その発想がすごい!大学生のとき芝浦インクスティック(というライブスペース)でバイトしてたんですけど、FUJI AV LIVEっていう音と映像を融合したシリーズイベントがあって、そこにビートニクスが出たんですよ!もう仕事そっちのけで脇からのぞき見してましたね。そしたらマネージャーに怒られちゃいましたけどね(笑)。」
インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹