中西俊夫(ミュージシャン/アーティスト)

『82年に東京で、ニューヨークっぽいクラブピテカンを始めたんだ』

一気に枠が拡がって制限がまったくなくなってノー・ルールーになったって感じ。それが80年代のおもしろいところだよね

★トシさんは80年で24歳くらいですね。

「ちょうど80年がプラスチックスのデビューだね。正確に言うと79年に(イギリスのインディーズ・レコード・レーベル)ラフ・トレードから(シングル『COPY/ ROBOT』が)出てるけど。でも結成は76年だから、下積みが3年くらいあって」

★当時はどんな音楽に影響を受けてたんですか?

「プラスチックスの結成当時はまずパンクから影響受けてるんだけれども、デビューした頃はもう4〜5年経ってるわけで、ポスト・パンクとかニューウェイヴになってますよね」

★その頃にニューヨークに行ったんですか?

「その前にもちょこちょこ行ってたんだけど、どっぷりいったのは80年にプラスチックスのワールドツアー終わった後。そのまま8カ月くらいニューヨークにいました」

★へえー。その頃のニューヨークは音楽的にどうでした?

「なんでもありだったからおもしろかったですよ、あの頃のニューヨークは。実はパンクって音楽的にけっこう制限されてるところがあったけど、ニューウェイヴになってから、それこそポリスが出てきたように、テクニカルにも大人受けするバンドが出てきたり---------プリテンダーズとかトーキング・ヘッズとか。あとラウンジ・リザーズはジャズやってるわクラウス・ノミはオペラやってるわで、一気に枠が拡がって制限がまったくなくなってノー・ルールになったって感じ。パンクの衝動がニューウェイヴって形になって間口が広くなって、それが80年代のおもしろいところだよね。アティテュードが変わったっていうか」

★ なるほど。ちなみにプラスチックスはアメリカでもライヴをやってたんですよね?

「意外とまじめにやってましたよ-------アメリカは50カ所とかまわってるし、イギリスはもちろんヨーロッパもまわってるし、そういうツアーを3回くらいやってるから。アメリカツアーはトーキング・ヘッズとB-52'sと途中まで一緒にまわって、それからはプラスチックス単独でニューオリンズとかテキサスまで行ってたり」

★あれ? プラスチックスって81年に解散ですよね。

「うん、デビューして2年くらいで解散しちゃう」

★それでそんなにツアーまわってたんですか?

「だから燃焼し過ぎ?(笑)。でもあんだけちゃんとツアーしてたバンドは当時日本ではなかったんじゃないかなあ。YMOもやってたけど大都市ばっかりでしょ」

★じゃあ、その2年くらいで燃焼し尽くしちゃうっていう。

「そうだね。でも毎日ヘンなことがいっぱいあって、おもしろかったですよ」


80年代になると俄然ニューヨーク勢の方が元気よかったね。みんなお金がなくても、ないところで工夫して、おしゃれして、音楽もやって


★ちなみにポリスは聴いてました?

「聴いてましたよ。やっぱりニューヨークの友達がファーストアルバムをくれたりして。ニューウェイヴってことで髪の毛逆立てて出てきたけど、実は楽器がすごくうまくて、全然パンクじゃないじゃんっていう(笑)。そこがおもしろかったんだけどね。『ゼニヤッタ・モンダッタ』くらいまで聴いてたかなあ。好きでしたよ。ただ“ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ”ってあの曲で一気に冷めて(笑)。あれでドン引きして、その後は知らない(笑)」

★(笑)その頃どんな音楽を中心に聴いてたんですか?

「僕はねえ、プリンスとかマイケル・ジャクソンとかファンカデリックとか。(トーキング・ヘッズの)デビッド・バーンの家行ったらプリンスの『コントラバーシー』ががんがんかかってたりしたから、その影響もあって。マイケル・ジャクソンは『オフ・ザ・ウォール』の頃で、(セックス・ピストルズ / P.I.Lの)ジョニー・ロットンが『今年最高のアルバムだ』っていうから、じゃあ聴いてみようって買ってきて(笑)。あとアフロが流行ってきてて、やっぱ民族っぽい、アフリカとかそっちの方向に目が向いてた」

★へえー。じゃあ遊びに行くのはやっぱりクラブとか?

「“マッドクラブ”とか“CBGB”とか“ペパーミントラウンジ”(というライヴハウス / クラブ)がすごくおもしろくて。その辺は味も素っ気もないコンクリートのハコなんだけど、でも来てる人たちがおもしろいっていう感じ。そういうとこにミック・ジャガーもボブ・ディランも来ちゃうっていう。あと(巨大なナイトクラブ)“Ritz”っていうところがあって、そこでクラフトワークやったりイギー・ポップやったりして--------僕たちもRitzでやってるから顔パスになってて、で、ちょうどRitzの角に住んでたから毎晩のように行ってましたね。そうするとデビッド・ボウイとカトリーヌ・ドヌーブが来てたりとか、あとキース・リチャーズとパティ・ハンセンが朝の4時頃にゴミ箱漁ってたりとか(笑)」

★ははははは。

「何やってるんだろ、この人みたいな(笑)」

★すごいなあ。

「77年は(パンク・ムーヴメントが起こった)ロンドンだったけど、その後80年代になると俄然ニューヨーク勢の方が元気よかったね。ニューヨークのダウンタウンの熱気はすごかった。いまみたいに3000ドルのバッグを持つのがかっこいいっていう、そういう価値観じゃなかったから、みんなお金がなくても、ないところで工夫して、おしゃれして、音楽もやって」

★なるほどね。

「たとえば音楽的にも70年代って前半はテクニック至上主義だったし、後半はパンクでポリティカルだったけど、80年代はノンポリでもっとアートっぽいっていうか。特に僕はニューヨークの磁力が強い時期にいたから、いい時にいい場所にいたって感じだね」

★しかもニューヨークのいちばんおもしろい人たちがまわりにいて。

「うん。(27歳で死去したニューヨーク生まれの画家)ジャン・ミッシェル(・バスキア)も、普通に僕の前のガールフレンドの新しい彼氏みたいに紹介されて、全然最初は何者だかわかってなくて(笑)。でも行くとこ行くとこ友達の家にジャン・ミッシェルの絵があってさ、それでへえーって。だから過去を美化してるわけじゃなくてさ、ほんとにおもしろかったんですよ(笑)」


バスキアもキース・へリングも日本来たときはピテカン寄ってくれて落書きとかしてくれて。そういう意味ではニューヨークっぽい雰囲気が漂ってた



「ニューヨークから東京に帰ってきて、82年に桑原茂一と“ピテカントロプス・エレクトス”ってクラブを始めるんだけど。当時けばけばしいディスコばっかりでニューヨークっぽいクラブはないねって話になって。そういう場所を作ってみんなに来てもらってクラブ体験をしてもらおうってコンセプトで始めたのがピテカンですね。なんでもできるギャラリーみたいなスペースでもあり、和食も食べれたりとか、カフェバーのはしりみたいな感じでもあるんだけど。ただ僕たちがプロじゃなかったから。水商売のね。だから潰れちゃうんだけど」

★はははは。

「(笑)試みとしてはおもしろかった。でも当時のオーナーは『どうせ1999年にノストラダムスで世の中終わるんだから、いいんだー!』みたいな感じで借金しまくって作って(笑)」

★ははははは。

「そのくらいの勢いでやっちゃったからねえ(笑)。でもバスキアもキース・ヘリングも日本来たときはピテカン寄ってくれて落書きとかしてくれて。そういう意味ではニューヨークっぽい雰囲気は漂ってたんじゃないですかね」

★なるほど。

「あとピテカンっていうプレイグラウンドがあったから、(81年に佐藤チカと結成したユニットの)MELONにしろ、WATER MELONにしろ、好き放題やらせてもらってたし、そこでおもしろい試みはいっぱいできたよね。あとミュートビートとかショコラータとか東京ブラボーとか日本のバンドともあそこで交流が持てたし」

★ちなみにピテカンっていつ頃まで続いたんですか?

「うーんと、84年かなあ。2年くらいで終わったと思うんだよね」

★あ、そんな短いんですか。でもあの頃スネークマンショーとかで、ブラックジョークの世界とニューウェイヴもクロスオーバーしてましたよね。

「そうだね。やっぱユーモアがないとつまんないじゃないですか。だからニューヨークがポエティックだとすると、日本はユーモアで対抗したって感じかもね」

★ちなみにその頃にまたニューヨークに行ってるんですか?

「行ってるけど、もうヒップホップだから行くところが違うじゃない。クイーン・ラティファのライヴ観にハーレムの方まで行くとか。だからニューヨークの80年代前半と後半って、まったく違うんですけどね。後半になるとヒップホップになって、どんどんどんどん街が危険になっていって、ほんと怖い雰囲気だったよ。だからおもしろかったんだけど(笑)。それで僕も今度は“メジャー・フォース”(というレーベル)を立ち上げてヒップホップになっていくんだけど」

★なんかもう、トシさんの80年代って世界中でとことん遊びまくってた感じですね(笑)。

「だって僕、35歳くらいまで毎晩遊んでたもんね」

★ははははは。

「やっぱそれくらいから体力的にきつくなったけどね。でもタイムマシーンがあるならもっかい(あの頃のニューヨークに)行きたいよね」


80’s お宝紹介

「81年頃にバスキアに会った頃に、誰がヒップホップのMCでいいとか、どのレコード買ったらいいとか聞いてて、そしたらスプーニーGがいいとか、グランドマスター・フラッシュ&フューリアス5がいいとか、(レーベルだと)エンジョイ・レコードがいいとか、その時いろいろメモってもらったんですよ。それがこれですね。だからその頃にもうヒップホップの種はまかれてたんだよね」

※もう一つの写真はインタビュー中に出てくる、今は無き伝説のクラブ“ピテカントロプス・エレクトス”で使われていたコースター。超貴重!





インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹


中西俊夫 Toshio Nakanishi a.k.a. Tycoon To$h

中西俊夫 1977年、立花ハジメ、佐藤チカと共にプラスチックスを結成。 イギリスのインディーレーベルから79年11月にシングル 「COPY/ROBOT」でデビュー。 テクノポップバンドとして注目を集める。 その後「ORIGATO PLASTICS」、81年に「WELCOME BACK」リリースし、世界ツアー最終公演地のN.Y.で突然解散。 1981年、佐藤チカと共にMELONを結成。 82年に1stアルバム 「Do You Like Japan?」を発表。 ピテカントロプス・エレクトスにてライブ活動を行いつつ、 同時に別プロジェクトのWATER MELON GROUPを進行。 1987年、工藤昌之、屋敷豪太、藤原ヒロシ、高木完と "DJ MUSICを世界に向けてOUT-PUTする" レーベル、MAJOR FORCEを設立、プロデューサーとしての活動を開始する。自らもTYCOON TOSH & TERMINATOR TROOPSとしてリリース。 同レーベルは、TINY PANX、THE ORCHIDS 、CHAPPIE、ECD、スチャダラパーなどを輩出。 1992年より活動拠点をロンドンに移し、続々と作品を発表。 2003年に帰国。野宮真貴との新プロジェクトPLASTIC SEXを始動。 2006年には、“グラムロックをフォークで”をコンセプトにしたPLASTIC FOLK、25年ぶりのライブをCD化したWATER MELONの新作がリリースされた。

TYCOON TO$H KINGDOM

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