★高城さんの80年代って高校生くらいからですよね?
「中3くらいかな。まず僕は当時、ニューウェイヴ・ロックみたいなバンドをやってました。時代はパンク、ニューウェイブだったんですよ、まさに(笑)。僕は音楽が好きでずっと聴いていて、中3の時点でレコード1000枚は持ってて、週に3回は渋谷の(レコード屋さん)CISCOに行っていて、その下(の階にあった吉野屋)で牛丼食って帰るっていう高校生だったんですけど」★(笑)その頃はどこに住んでたんですか?
「当時は池袋ですね。バンドメンバーと住んでました」★へえー。じゃあ高校時代はもっぱらバンドが中心?
「バンドとサーフィンですね」★あの頃サーフィンも盛り上がってましたよね。
「すごい盛り上がってた。70年代後半から80年代頭まで。ファッション・ブランドも“タウン・アンド・カントリー”とか“ライトニング・ボルト”とか、当時いっぱいありましたよ。だからライトニング・ボルトのTシャツ着て、レインボーサンダル履いて江ノ島行ってましたよ、車でみんなで」★(笑)音楽はどんなの聴いてたんですか?
「ロック、AOR、ニューウェイヴですね。全部ぐちゃぐちゃに。まだ70年代のロックもあって、ブリティッシュもアメリカンも。パンクもイギリスから来て、ニューウェイヴも来ていて、そういう時代でしたね。まさにあたらしい80年代が来るぞっていう。もちろんポリスもその中から聴き始めて。ディスコでもかかってたよ、“孤独のメッセージ“とか」★そういえばディスコでかける用の12インチシングルとか出始めた頃ですよね。
「いまでもいっぱい持ってるよ、昔の12インチ。70年代終わりから80年代頭までって大ディスコブームだから、僕も行ってましたよ、六本木とか。16歳くらいのオレは、だからいつもゲストで入ってました。ていうか16歳じゃゲストじゃなきゃ入れないから(笑)。中学生から遊んでたからね、ディスコで。サーファー系は六本木の“ナバーナ”ってディスコで、ニューウェイヴ系は新宿だったんですよ。で、月曜の夜に“ニューヨーク・ニューヨーク”ってディスコでニューウェイヴ系のパーティーがあって。なんで月曜かっていうと、それは月曜火曜が美容師が休みだから(笑)。それで金土はサーファーの友達と遊んで、月火はニューウェイヴ系の友達と遊んで、しょうがないから残りの水木はパチンコ屋っていうのが、だいたいオレのウィークリーのサイクル(笑)」★でもサーファーとニューウェイヴじゃ、ノリが違ってませんでした?
「違うけど、それもそんなに悪くなくって。当時の新宿と六本木のミーティングポイントって渋谷で、“スターウッズ”っていうでかいディスコがあったんだけど、そこに集まるのはサーフィン・カルチャーとニューウェイヴ・カルチャーのミーティングポイントに居る人たちで、パンクなところも押さえてて、あの辺の人たちと遊んでましたね」「1980年の7月にMTVが始まるんですよ。日本だと『ベスト・ヒットUSA』も始まって、音楽に映像がつくのが当たり前になって、それで17歳くらいから僕、ミュージックビデオとか映像にハマルんですよ。だから82〜83年?それから自分のバンドのビデオ撮り始めたりして」
★へえー。
「特にゴドレー&クレームっていう有名なビデオのディレクターがいて、僕は彼らにはまるんですよ、すごく。元々10CCってバンドのミュージシャンで、それから映像作家になった人で。音楽だけではなくて、映像に行ったりコンピュータに行ったりどんどん進んでいくんですよ。まさにその系譜を僕も辿ってるんですけど。で、ポリスの曲も撮っていて、“アラウンド・ユア・フィンガー”もそうだし“エブリ・ブレス・ユー・テイク”もそうだし、ポリスはいっぱい撮ってる。そのビデオクリップもすごいんだけど、ライヴのビデオもよくて。このDVDにもなってる『シンクロニシティー・コンサート』もゴドレー&クレームなんですけど、映像もライヴのお客を切り抜いたり、当時としては斬新なことをいろいろやってる。あとすごいのが、とにかく彼らに仕事頼むときは、予算無制限っていう」★(笑)。
「そのセリフは未だに僕は言ったことありませんけどね。『オレに頼むなら予算はないと思え』って一回言ってみたいんだけど(笑)」★ははははは。ちなみにゴドレー&クレームのどこにそんなに衝撃受けたんですか?
「“アラウンド・ユア・フィンガー”のハイスピード・カメラで撮影したやつなんて彼らの典型だと思うけど、絵コンテ描いたってわからない気持ちよさみたいなのを追求してるわけですよ。絵コンテでわかるものってつまんないんだよ。彼らって予算は無制限、絵コンテはなし、でもオレに任せろ的な感じじゃない(笑)。“アラウンド・ユア・フィンガー”なんてもしコンテの話聞いても『立ってるろうそく倒すんですよ』で終わりじゃん(笑)。他何にもないわけじゃん(笑)」★たしかに(笑)。
「それで18くらいから僕は本格的に映像に傾倒していくんですよ。それでアメリカ行ったりして」★高校と大学の間にアメリカがあるんですか?
「そう。半年くらいうろうろ。放浪者みたいな生活して。で、帰ってきて、大学に二十歳で入って、24歳で大学出るわけじゃん?その辺がちょうど80年代後半なんだけど、僕は86〜87年くらいからもうコマーシャルの監督やってましたよ。ニューヨークにロケとか行ってたもん。それで夜な夜な遊んで、ニューヨークでは当時パラダイスガレージっていうクラブがあって、そこでハウスにはまるんですよ」
★すごい、パラダイスガレージに行ってたんですか?
「行ってたんだよ。もうこれじゃん!って思って。とにかくカルチャーシーンとしておもしろかったんで、もう頻繁にニューヨーク行ってましたよ。ラリー・レヴァンとかと仲良くなって、DJブースにも入れてもらってたし。あとおもしろいパーティー行ったらアンディー・ウォーホールとかキース・ヘリングとか普通に居るわけじゃん?興奮するよね。うおー、すげえところにオレ居るなあみたいな。それですっかり舞い上がっちゃって(笑)、これはオレもいけるんじゃないかみたいな(笑)。世の中バブルだったし(笑)」★(笑)。
「そうやって80年代は遊び倒してたんですけど………でも、バブルが崩壊したんですよ、90年代の頭に」★ははははは。
「それからこれは働かないとまずいぞと思って、ドラマとか撮りはじめるんですよ。それまでは遊んでた、いまもそうだけど。いま景気いいじゃん?だから働かなくていいんだよ。でもそろそろ悪くなりそうじゃん?そろそろ働こうかなっていう(笑)」★はははは。じゃあ高城さんにとって80年代ってどんな時代だと思いますか?
「僕に遊びを教えてくれた基本の時代ですよね。街のルールを教えてくれたよね。それは僕の場合、それは当時のニューヨークで。たとえばいいパーティーってフライヤーとかない。メディアにも載らない。でもいいパーティーに行くとアンディー・ウォーホールとかキース・ヘリングがいたわけですよ。そういういいパーティーがたまにあるんですけど、絶対に表には出てこない。そういう情報をどう入手して、そのパーティーにどう入るかっていう街のルールってあるじゃないですか。そういう偉い人たちと仲良くなって、どうやってコミュニケーションとっていくかっていう街のルールみたいなのを80年代は僕に教えてくれましたよね。いまももちろんあると思うけど、少なくともそれがインターネットではないことは確かだな」★なるほどね。
「あの時代って戦争もないでしょ?インターネットができるちょっと前でしょ?だからいまみたいに荒れてないし。インターネットの世界が荒れてしまったんで、だから僕みたいな人はそれを遠ざけてしまってるけど。だって全然おもしろくない。どきどきしない」★たしかにそうですね。
「正直社会全体が行き過ぎたんだと思う。インターネットもそうだけど、テクノロジーが行き過ぎてしまったところから、もうちょっと前のシステムに戻っていいんじゃないかな。バック・トゥ・80'sなカルチャーが世界的にいま大きいのも、もしかしたらシステムは80'sでちょうどいいのかもねっていうことをいま検証し直してるんじゃないですかね。だからポリスの再結成はすごく意味があると思う。もう一回ポリスの映画を観て80年代のお作法を学ぶっていうのは、非常に意味があることだと僕は思いますね」■80’s お宝紹介
80年代のお宝を持ってきてくれってことで、今日持ってきたのは『シンクロニシティー・コンサート』のベータビデオの未開封(※ベータはビデオの規格の名称。VHSとの激しい市場競争に敗退し、市場から姿を消している)。当然開封したのも持ってるしDVDも持ってるんだけど、僕は基本的にオタクなんで、未開封のものとかいっぱい持ってるんですよ(笑)。それ持っててどうする!?ってとこもあるんですけど(笑)、でもほんとに昔から好きなんです(笑)
インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹