★薫さんは80年で13歳だから中1とか中2ですけど、中学生のときから音楽はいろいろ聴いてたんですか?
「そうですね、地元が神奈川なんで、MTVのはしりみたいな(TVK<テレビ神奈川>で放送していた)『ファントマ』(※『ファンキートマト』)って音楽番組があって、それでけっこういろいろ観てたんですけど、入り口はYMOからですね。そこから、ものすごいハマリ始めて」★へえー、YMOなんだ。
「当時やっぱり流行ってましたから。ただ中学の時は普通にハードロックみたいなのも好きで、それこそ武道館にライヴを観に行ったりとかしてましたね。あと、これよく覚えてるんですけど、中学卒業する直前くらいに、坂本龍一がやってたFMラジオ番組を聴いてたんですけど、それで『ザ・ジャムっていうバンドの新作が出たから今日はそこからいっぱいかけます』みたいな感じでかけてて、でも坂本龍一本人は『これはつまんない音楽ですねえ』『何がいいのかさっぱりわからない』とかずーっと言いながらかけてるんですよ(笑)」★へえー(笑)。
「でも僕はそれに反応して、異様にかっこいいって思って。そこからですね、パンクとか、ちょっとメジャーではない、アングラ感のある音楽が好きになったのは」★中3ってことは、82年?じゃあラストアルバムの『The Gift』かな?
「あ、それです。それがパンク / ニューウェイヴに行くきっかけですね。それまでそういう音を聴いたことがなかったから」★じゃあ、そこから高校に入って本格的に音楽を聴き始めるという。
「そうですね。ザ・ジャムがきっかけでセックス・ピストルズとかパンクロックを(遡って)聴いたり、パンクムーヴメント以降のいろんな枝分かれしていくところを、すごくおもしろがって聴いてた感じですね、いま思うと。あと中学時代からギターをやってたんで、引き続き速弾きってわけじゃないけど、ハードロック的なギターテクニックを追求したりとか。そういうのを並行して体験してた感じですね」★じゃあ高校ではバンドもやってたんですか?
「同じような好みを持った友達が集まってバンドやってみようよってやり始めて。で、その内に、高校2年くらいかな?同じクラスにハードコア・パンクの、ものすごくテンポの速いバンドのヴォーカリストがいて、そのバンドはオリジナルの曲をやってて、横浜のライヴハウスに月に一回出てるようなバンドだったんですけど。で、ギターのやつが抜けた時に、ちょうど僕はパンク的なバンドをやってて、『お前、ギター弾けるんならこっちやってみない?』って。それでいきなりそのハードコア・パンクな世界に放り込まれたんですよ(笑)」★バンドで言うとガーゼ、ギズム、エクスキュートとかその辺の過激なシーンですか?
「そうそう。あの時ってそういうハードコアのバンドが急に出始めたときで、なんかうごめいてたというか。それで一年くらいやってましたよ。横浜に“ジーンジニー”っていう小さいライヴハウスがあって、そこ(で企画されていたハードコア・パンクのライヴイベント)に月一回くらい出たり。そこには凶暴な人たちが集まっていて(笑)、自分の身体をカミソリで切りながら歌ってるヤツが居たりとか(笑)」★〔笑〕。
「何やってんの!?、この人たちみたいな(笑)。凄まじかったですね。でもカッコイイみたいに思ったり(笑)、まだ若いから。好んで聴く音楽ではなかったんだけど、なんか興味本位でやってましたね」★それってハードコア・パンクをやりながらも、何か違うなって思ってたっていう?
「いや、でもね、ギターをそういう(凄まじい)現場で、ものすごい速いテンポ感の中で、ほとんどノイズみたいな音にして出すっていうことに関しては、おもしろさ感じてましたね」★だってあそこまで音によって緊迫感というかスリリングさを出すって、他の音楽にはなかったですもんね?
「そうですよね。それこそアドレナリン大噴出っていう(笑)。あと恐いもの見たさっていうのもありましたよ。すごく暴力的な何かが(そのシーンに)漂ってて。『観に行ってみたいけど、これはちょっとヤバいよねえ』みたいな(笑)。それで日本のバンドに興味を持ち始めて、ハードコアに限らずよくライヴは観に行ってましたね」★じゃあ高2高3くらいは、当時の日本のアンダーグラウンドなパンクムーヴメントの中にいたんですね?
「そうですね。そのハードコア・パンクのバンドは高3で辞めちゃうんですけど、その後もポジティヴ・パンク/ゴスみたいなシーンに行ってましたね」★オート・モッドとかサディ・サッズとか?
「そうそうそう。最終的にそっち方面がものすごく好きになって、結局高校出て二十歳になるくらいまではよく観に行ってましたね。自分のファッションも若干そうなってきたりして(笑)」★だんだん黒っぽくなってくみたいな(笑)。ちなみにハードコアやってるときの髪型ってどんなでしたか?
「髪はね、なんか横側を剃って、上(の髪)は立てると長いんですけど、それを普段は下ろしてるっていう、そんな感じだったんですけど(笑)。でもライヴのときは思いっきりおっ立てて(笑)」★はははは。やっぱりみんなやっちゃってるなあ(笑)。ちなみに高校の時って薫さん自身は荒れてたりしたんですか?(笑)。
「いや、暴力的な人間ではなかったですけど、なんかその、ネクラ/ネアカみたいな世界の区分の仕方があったじゃないですか、80年代って。で、その暗さも見つめるみたいなところが自分にもあって---------なんか若いのに妙に退廃的な絶望感に浸ったり。みたいなところあったのかな」★なんかわかりますね、その感覚。じゃあハードコア・パンクによって音楽の扉やカルチャーの扉が自分の中で開いたという?
「そうですね、どっちもですね。だからクラブカルチャーに出会ったのって、ほんとに80年代の末期ですよ。88〜89年くらいかな?」★クラブカルチャーっていうと?
「(桑原茂一さんが主宰していた)クラブキングが、当時、川崎のクラブチッタを借りてウェアハウス・パーティーをやってたんですけど、友達づてでそのイベントのアルバイトにたまたま誘われて、それでまたいきなりそういう現場に放り込まれたんですよね」★へえー、どんなでした?
「当時はジャズで踊るっていうのをクラブキングの人たちは積極的に日本に紹介しようとしてたんですけど、それはまた見たこともない世界観で、もっとスタイリッシュでカッコイイっていう」★アシッドジャズとかですか?。
「そうです。だからパーティーはロンドンからバンドを呼んだりとか、ジャズダンサーを呼んだりとか、あとは日本人のいろんなDJが出て一晩パーティーをやるとか---------DJイベント的なものの走りなんじゃないかな?そこでかかってる音楽はレアグルーヴ的なものだったり、ラテンだったり、まあいろいろでしたよ。それでほんとにすごい時って、それこそ4ビートで速いジャズとかかけて、そこでロンドンから来たダンサーがめちゃめちゃアクロバティックなダンスを踊って、それがほんとにカッコよくって」★へえー。
「ちょうどその頃ってSoul II Soul(※89年発表のSG“キープ・オン・ムーヴィン”でブレイクしたJazzie Bを中心とした“グランド・ビート”プロジェクト)が好きになったり。だから大雑把なイメージとしては、Soul II Soulとアシッドジャズ辺りの音楽が(クラブミュージックの)入り口ですね」★ちなみにレコードジャンキーになり始めるのは90年代に入ってからですか?
「そうですね、DJカルチャーに興味を持ち始めるようになってからですね。DJ始めたのは24歳くらいかな?ただ実は大学出てから僕、レコード屋で働いてたんですよ、六本木のWAVE(※良質かつマニアックな品揃えで当時のカルチャーをリードしていた輸入盤レコードを扱う大型店)なんですけど」★あ、そうなんだ!?
「そこでワールドミュージック・コーナーのバイヤーをやってたんですよ」★じゃあ音楽的にいちばん最先端を扱ってたんじゃないですか(笑)。
「あと20代はインドネシアにしょっちゅう行って、バリとかジャワのガムランの世界にものすごく惹かれたり」★それでいまの薫さんのDJスタイルや音楽性って、エスニックだったり落ち着いた世界観を持ってるんですね。
「でも80年代っていうと、僕の場合はパンクとニューウェイヴと日本のインディーズバンドと、ほとんど記憶に刻み込まれてる音楽体験って、そこがベースですね」★へえー。
「ただここ何年かDJミュージックの世界でも80'sリバイバル・ブームってあるじゃないですか。そういうところでもてはやされてるエレポップみたいなのは、全然興味ないですね」★あ、そうなんだ。
「だから結局僕は80年代の何を見てたんですかね?結局ゴシックみたいな世界観をもった、あの芝居性というか非日常感とかを求めてたんですかね」★メジャーでもアンダーグラウンドでも現代アートでも、とにかくいろいろ実験的な試みがありましたからね。
「いろいろあって、しかもそれがちゃんと受け入れられるシーンもあったし、評価軸みたいなものもあったし。いま考えると、80年代通じてですけど、物が溢れかえる前夜みたいな雰囲気というか、文化的な楽しさが無限にあるんじゃないかって雰囲気が漂ってたし、実際に何か底なしなんじゃないかくらいなイメージもあったし、やっぱりおもしろい時代だったんだなって」■80’s お宝紹介
RIP,RIG & PANICのベスト盤『Knee Deep in Hits』と、23SKIDOOのアルバム『Urban Gamelan』です。自分の中の80年代のポスト・パンク的イメージが凝縮されている2枚のCDですね。
23 SKIDOOはイギリスのバンドなんだけど、メンバーに中国人系マレーシア人が二人いて、ドラム缶とか廃材でガムランやってるんですよ。ほんとパンク以降って何でもありだったんだなあって---------
アイデアがあれば、別に楽器の技術とかなくても全然出来た時代で、そこがすごくおもしろかったんだなって思いますね。
インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)