★川辺くんはちょうど中高生くらいが80年代前半ですね。
「そうそう、中1が80年だから、ちょうどがっつりって感じですね」★どこに住んでたんですか?
「鹿児島ですね。高校まで。で、オレ、中3になる前の春休みに盲腸で入院してて、そのときにNHK FMでポリスの来日ライヴが放送されたんですよ。で、ソニーのクロームテープ(※高音質で録音できるカセットテープ)の90分を買って録音して--------中2でクロームテープの90分ってすごい出費だったから覚えてるんですよ(笑)。これは大切にしようと思って。いまだに聴いてますよ。すっごいかっこいいんですよ、そのライヴ」★へえー。じゃあポリスもけっこう聴いてたんですか?
「いや、そのテープばっかりで作品は全然聴いてなかったです。クラッシュもそんな聴いてなくて。ていうか、その時にはもう、PIL(※パブリック・イメージ・リミテッド。セックス・ピストルズ解散後、ジョン・ライドンが1978年に結成したポスト・パンクバンド)が『メタル・ボックス』(1979年リリース)を出してて、で、中2の頃に『フラワーズ・オブ・ロマンス』(1981年リリース)が出たんですけど、それがいちばんの衝撃でしたね。びっくりしました。それがほんとに何よりも、やられましたね。それがいまでも基本になってる」★そうなんだ。
「それまでは普通にELO(※エレクトリック・ライト・オーケストラ)とかTOTOとか(のヒットチャートを賑わせた音楽)だったんですけど、突然『フラワーズ・オブ・ロマンス』に行ったんですよ。あとポップ・グループ(※UKのポスト・パンクバンド)とか」★それはどんなきっかけで、急にそういう前衛的というかマニアックな方に行ったんですか?
「ほぼラジオの影響ですよね、(NHK FMで放送していた)『サウンド・ストリート』とかで聴いたんじゃないですかね」★じゃあ本格的に音楽に傾倒していったのはその頃?
「中2が分岐点ですね。でも入ってくる情報なんて(当時その辺の音楽を中心に扱う雑誌だった)『フールズメイト』とミニコミとラジオくらいしかないから、隅から隅まで読んで。しかも、ものすごい勘違いして、なんかよくわからないものを(自分ひとりの頭の中で)育ててたって感じですよね(笑)」★じゃあ、ひたすら妄想をふくらませてたという(笑)。
「でもラジオが中心だったから、ほんと何でも聴いてましたよ、ブラコン(※ブラック・コンテンポラリー)も。PILも聴くしグローバー・ワシントンJrも聴くしって感じで。かっこええなーって(笑)。ジャンル分けとかしないじゃないですか、子供だから。それで片っ端からラジオでチェックして、引っかかるやつは全部テープに録って。それがいまだに家にあるんですけど、聴き返してみると、いまだによくぞやったって感じの良いセンスの選曲をしてるんですよ(笑)。当時何も考えないで選んでたんだけど、よくぞあっちに行かなかったなっていう」★(笑)じゃあ、中学高校のときは音楽が中心にあったんですか?
「音楽のみ。他は何にもなかったです。と言って引きこもりってわけでもなく、友達とはわいわいしてるんですけど、そん時はPILの話とか一切なく、RCサクセションくらいからようやく話が合うくらいで(笑)。結局、高校卒業するまで、誰も共有できる友達を見つけられなくて(笑)。ものすごい一人で悶々とした感じでしたね」★でもバンドやってたりロック好きなやつっていっぱいいたでしょ?
「いないです。いても浜省(※浜田省吾)とかですから。この世には居ないのかなって思ってました(笑)」★(笑)ちなみに邦楽も聴いてたんですか?
「聴いてましたよ。RCとかルースターズとか、あとインディーズものですよね。スターリンとかEP-4とかじゃがたらとか。高円寺のレコード屋さんが通販とかやってたんですよ、それで買ってましたね。なんかリスト送ってくれって言うと、いまでいうアダルトDVDのカタログみたいにレコードがびっしり入ったようなやつを束にして送ってくれるんですけど、それ見てるのがほんとにうれしくてねえ」★(笑)。
「こんなにいっぱいあるのかあ!って(笑)。よだれ垂らしながら見てましたよ」★東京に出るのはいつ頃なんですか?
「高校卒業して18歳で就職したときですね。まず東京のクラブで普通にポスト・パンクとかが流れてるのを聴いて、ほんと衝撃でしたね。こんなに居るんだ! そしてこんなに盛り上がるんだ、この曲で!、とか思って(笑)。えっらいことだなあと思いましたね」★(笑)どんなクラブに行ってたんですか?
「当時遊びに行ってたのは、クラブDとか玉椿とかツバキハウスのロンドンナイトって感じでしたけど、19の時に(西麻布の交差点近くにクラブ)ピカソができたんですよ。そこにも衝撃を受けて。もうずっと行ってましたね。もう狭くて、いつもパンパンで、音も悪いんですけど、でもかかってる曲がもう一曲もダサイのがないっていう」★へえー。
「だから、クラブDとかだと、ニューウェイヴがかかるまでにユーロビートとかディスコがかかって------いまだったらユーロとかディスコとかも楽しめるんですけど(笑)、当時はもっととがったのをくれって感じだったんで、ニューウェイヴがかかると踊って、それまでは待ちって感じだったのが、ピカソでは全部それっていう。あとは、そこで出始めのラップとかダンスホール・レゲエとかも混ぜてかけてて、『何これ!? このドラムと声だけの音楽、何!?』みたいな。だって最初に聴いたのがクラブだから、全身包まれるように聴いてるわけじゃないですか。あんなの爆音で聴かないと意味ないじゃないですか。あれなんかほんとに、何なんだこれは!?って感じですよね。もうあり得ないと思って」★へえー。
「それで、初めてそこで話の合う友達ができて。DJもブースの前でずっと見てこうやってやるんだって知って。それで会社辞めたら意外と退職金出たんで、それでターンテーブルとミキサー買って。で、そのまま(下北沢のマニアックな中古レコード店)“フラッシュ・ディスク・ランチ“でバイト始めたんで、あとはもうレコードを買うのみって感じになるんですけど(笑)」「あとフラッシュで働き始めた頃ってレア・グルーヴ・ブームみたいなのが起きましたから、もうタイヘンでしたよ、許容量を超えちゃって(笑)。いわゆる名盤みたいなのを高く売っていたレコード屋が慌てるというか、100円コーナーで売ってたレコードが急に価値をもつみたいな。クズみたいなものが急に宝になってしまうってときにちょうど働いてたんで、だからおもしろかったですよね。パラダイム・シフトみたいなことが起こった感じですよね。それが痛快でしたよ」
★音楽の聴き方が変わったのかな?
「うん。スタジオミュージシャンのドラムのソロ・レコードが急に光り輝くみたいなさ。なんで?って聴くと、『ここの16小節がすごくかっこいいから』とか(笑)。何その聴き方!?って(笑)」★ははははは。
「ブレイクビーツっていう考え方ってそういうことなんだってびっくりしたし、その後テクノが出てきたり、アシッドジャズもあったし、GO-GOもあったし、日々どんどん出てきて、そこでまた音楽のあたらしい地平を見せつけられて『え?こんなにまだ広いの!?』って途方に暮れるって感じですよ(笑)」★はははは。
「『いやー、登り詰めたなあ』とか思ってたのに全然もう一段階あって(笑)、うわーって感じですよね。そうやってアワアワしてる間に今に至るみたいな(笑)」★(笑)じゃあ金の使い道はもっぱら音楽という?
「そうですね、いまだに。他ないんですよね。車の免許も持ってないし」★はははは。じゃあその辺からDJも始めて------。
「後は普通にいまに至るって感じですよ。そっからのストーリーはなんもおもしろくないです(笑)。やっぱり21ぐらいまでが人間の基礎を形成するんでしょうね。でもほんと誰も友達もいなかったのに、なんでそっちの音楽をひたすら選んでたのか、いまだに不思議ですよ」★でもそれがいまの川辺くんのスタイルにちゃんと繋がってるわけだからね。
「だから怖いですよね。ひとつのセンスが人生を変えてしまいますよ、ほんとに(笑)」★じゃあ80年代を総括すると、川辺くんにとってどんな時代だんですかね?
「いや、総括できないですよね、いまだに(笑)。あれは何だったんだろうって。いわゆる80年代って言われて思い浮かぶものじゃないところに居たから、余計にね。パンクに間に合わなくて残念だったなって思ったこともあったし、ジミヘンにも間に合ってないし、わりとぽっかりした何もない時期に育ったみたいなことをずっと言われてたけど、いま考えたらすげえいろんなことがあったなって(笑)。当時は何も間に合ってないなって思ってたんだけど、いま考えたら、すげえいい時代を過ごしたなって思いますよ」■80’s お宝紹介
インタビュー中にも出てくる、川辺くんが中学2年当時に最初に衝撃を受けたアルバム。パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)の1981年リリースの傑作『フラワーズ・オブ・ロマンス』。PILはセックス・ピストルズ解散後、ジョン・ライドンが1978年に結成したポスト・パンクバンドで、このアルバムでは打楽器による怒濤のリズムにジョンの呪詛的なヴォーカルがからみつく唯一無比のグルーヴが展開していく。圧巻!
インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹