
★沼澤さんはどこで生まれ育ったんですか?
「生まれたのは新宿で、小中高、大学も、住んでたのはずっと新宿。小中高はスポーツしかやってなかった。両親がめちゃめちゃスポーツやってたから。家の親父はプロ野球の選手(※故・沼澤康一郎氏)だし、おふくろはバスケットボールのスターで、国体で優勝して最優秀選手みたいな」★へえー。
「高校・大学って慶應なんだけど、高校の時は野球しかしてないもん。ただ、大学でもやってたんだけど、その時の監督が嫌で(笑)、速攻で辞めて。その頃って自分は絶対プロ野球の選手になるとしか思ってなかったし、家の親もオレはいけると思ってたの。ところが野球部辞めちゃったから親ともすげえ仲悪くなり、しかも毎週金土は六本木に友達と遊びに行きみたいな。その頃に80'sに入るのかな?大学に入って2年生のときが80年」★音楽は聴いてたんですか?
「家の兄貴が5つ上で超音楽好きだったから、小学生のときからジャクソン5とかモータウン系が大好きで聴いてて。大学の頃はだからディスコだよね。ユーロビートとかニューウェイヴの前の」★あ、ディスコ行ってたんだ。
「もう毎週末、必ず六本木にいた。朝までディスコ遊び(笑)」★へえー。
「キサナドゥ(※約1年半で閉店した伝説のサーファーディスコ)とか、ネペンタとか。だから六本木スクエア・ビルだよ。ちょうどMTVが始まってPV(プロモーション・ヴィデオ)が出始めた頃だから、マイケル・ジャクソン、アース・ウィンド&ファイアとか、その辺を映像を観ながら一緒に踊るみたいな(笑)。だからオレは古着着てリーバイス履いて、もうアメリカ人になりたい、みたいな(笑)。それが80年代のはじめ。ボズ・スキャッグス、ボビー・コールドウェル、山下達郎の音が車の中に入ってないといかん、みたいな、そういう時代」★(笑)遊び人だねえ。じゃあスポーツはやってたけど、大学時代はディスコが中心っていう(笑)。
「そうそう(笑)。もう青春はディスコだもん」★はははは。
「それで、オレは83年にアメリカ行っちゃうからニューウェイヴじゃないわけよ。そこは(いま一緒にバンドをやってるメンバー)みんなと全然違うと思うよ。音楽はだから、好きで、めちゃめちゃレコードを買って、ライヴを異様に観に行ってたっていうだけで、楽器とか何もやってないし。自分は別にミュージシャンになろうと思ったことも一度もなかったから」★そうなんだ。
「でもその頃聴いてた音楽が(いまドラマーとしての音楽性の)いちばん元になってるところあるわけ、結局。たとえばディスコで“I Wanna Be Your Lover”が初めてかかったときとか、『うわ! 何これ!?』ってDJブースに行ってターンテーブルで回ってるレコードのクレジット一生懸命見て、『“PRINCE”? これタイトルかなあ? アーチストかなあ?』って。で、すぐ隣にある六本木のウィナーズって輸入レコード屋に行って、それ見つけて買ってとか」★じゃあディスコも完全に音楽が目的なんだ。
「もちろんもちろん。だからそこで聴いたものをすぐレコードを買いまくってて、『これかっこいい! なんだろう!?』って。で、その人たちがライヴで来たりすれば観に行きみたいな。そういう感じだった」「で、そういうブラック系・モータウン系の流れもあるんだが、70'sの終わりから80'sにかけてってスタジオ・ミュージシャンっていうポジションにいる人が音楽業界でかっこいい時代だったのね。いちばんかっこいいのは、いろんなヒット・アルバムで演奏している人たち、みたいな。そういうミュージシャンが集まって作ったのがTOTOで」
★はいはい。
「TOTOはめちゃめちゃ上手い人たちで、スタジオ・ミュージシャン出身だけど、自分たちのバンドもやってグラミー獲っちゃったみたいなのが、かっこいいと思ってたわけ。あとオレはドラマーがいちばんかっこいいと思っていて」★なるほどね。
「ただ、アメリカに行きたいと思ったのは82年なんだけど、それはミュージシャンになるっていうより、アメリカ、西海岸、POPEYE(※76年創刊の男性ファッション/ライフスタイル雑誌)みたいなディスコ流れのカルチャーがあったからで。TOTOも西海岸だったし」★それでアメリカに行きたかったんだ。
「でもアメリカに行くって言ってもどうしようかなってなって、じゃあドラムの学校に行くっていうことにして、みたいな(笑)。で、すごい学校見つけたのね、ロサンゼルスに。そこってTOTOのドラムやってたジェフ・ポーカロのお父さんがディレクターやってた学校なのよ。で、これだ!って思って(笑)。で、勝手に、もちろん親とかに黙ってパンフとか請求して。そのパンフとか見てるだけですげえ!とかなり、応募要項見たらカセットテープにドラム叩いてるのを録って送ってくれたら審査しますとか書いてあって。それでオレ、ドラムはおろかスティックも持ってないから、スティックを買って、レッスン本みたいなのを買って(笑)、貸しスタジオに入って練習して、カセットに録音して送ったら“合格”とか来て。お、合格じゃん!、みたいな(笑)」★ははははは。
「それで親に『オレはドラムの学校に受かったから、ドラムやりにアメリカ行ってきます』とか言って。親は『お前、何言ってんの?』みたいな。だって家の親はオレがドラムやってるなんて見たこともないし、知らないし。オレもドラマーになろうっていうより、アメリカに行きたいがために、その名目でドラムの学校に行くっていう。なんかアメリカに住んで英語がしゃべれたらいいなって思ってただけで、就職とかいつでもできんじゃない?、とか思ってて。それで大学卒業して83年に行ったの」★へえー。でもアメリカ行った当初は英語もしゃべれないし、カルチャーショックもあるだろうし、大変じゃなかったの?
「いや、楽しかったよ。だって24時間、音楽だけやってんだもん。学校楽しいし、練習すると上手くなるし、それをやってくと誉められるし(笑)。あと先生たちすごいし、自分がアルバムで聴いてた人たちが『うわっ、そこにいる!』みたいな。そんなのばっかりだったから。あとたとえばレゲエのライヴ行って、あのビートを練習しようと思ったら、そのまま12時過ぎでも学校戻ってレゲエ大音量にして練習できたわけ。毎日それだもん」★夜中でも叩ける環境があるんだ。
「すごかった。ほんと寝るだけでしか自分のアパート帰ってなかったし。むちゃくちゃ楽しかった。だから突然やりたいことが見つかったみたいな感じ。しかも一年中それなのよ。2年目からその学校の先生として教えるようにもなるんだけど、それからもあんまり変わらなかったから。80年代ってすごくそういう感じだった」★ちなみに生活っぷりはどうだったの?
「ぎりぎり。やばかった。講師始めてからもそのお金で家賃払うのがやっとだもん。だからリトルトーキョーでお米のでかいの買って、それだけ毎日食い続けるのと--------」★ははははは!
「あとインスタント・ラーメンってあるじゃない? それをバリバリバリって食って水飲むとか」★ははははは。
「そういうのだった。粉末スープをかけて食うと旨いじゃん?」★そうかなあ?(笑)。
「だからそれよりも、とにかくいろんな人がいて、いろんな演奏できるようになってきたから、ちょっと頑張ってしばらくいてみようと思って」★へえー。
「で、オーディションとかもいっぱいいって、そのうちチャカ・カーンのツアーでドラム叩けることになったり、その流れで87年にボビー・ウーマックって人のツアーバンドのドラマーに誘われて。それで、そのツアーって日本に行くツアーも入ってたの。それでオレ初めて日本に来て演奏したの。そこで両親は初めて自分の息子がドラム叩く姿を見るわけ(笑)」★へえー、すごいねえ。
「その次の年に親父は癌で死んじゃうんだけど、それは観れたんだよね。で、そのとき家の親父に『お前がドラムをやってるってところを見たこともないし、そんなもんできるのかと思ったけど、何をやりたいかはわかった』って言われて。それ、すごい覚えてるな」★それはよかったねえ。じゃあ、80年代は最初は大学生だけど、後はずっとアメリカだ。
「めちゃめちゃアメリカ。ドラムの種類は何でもやった。だから練習するのはレゲエで、でもライヴは今日はブルースで、あしたはゴスペルのミュージカルで、あさってはバラードシンガーのバックでとか------ライヴハウスがいっぱいあるからさ」★なるほどね。
「だからオレが80'sにやってたことって、今やってることの土台にはなってるけどそのまんまやってはいないよね。ドラマーとして実際に今やってること(※自身のバンドとしてシアターブルック、サンパウロ、OKI DUB AINU BANDなどで活動中)を80'sからやってきたわけでは全然ないから、そういう意味では逆によかったかも」★というと?
「だからその時に流行ってた80'sカルチャーとかアンダーグラウンドなシーンの流れにあんまりハマっていなかったので、ドラムの経験と技術を高めるっていうのが逆に出来たのかもしれないのね。だからその時、オレはニューウェイヴだってなってたら、ドラムのプレイが全然違うものになってただろうし」★なるほどね。
「だから普通はみんな最初にバンドをやろうとして、でも解散して、じゃあドラマーとしてどうしようって人の方が多いでしょ? だって一個のバンドだけやり続けられるってほんと少ないから。それでいろんな人のバックでやり始めたりとか。オレはそれが逆なんだよね。実際日本に戻ってきてからも、いろんな人のバックで何でもやってたのが、いまバンドに絞られていって、そこが狭く深くなっていってるっていう。だからオレ、バンドしかできませんって人じゃないのに、いま自分のキャラクターを出せてるんじゃないかな」取材協力:GreenCafe Saigohyama
■80’s お宝紹介
「ポリスはねえ、83年にオレがアメリカに行って学校が始まった一ヶ月後くらいに(LAに)“シンクロニシティ・ツアー”で来たの。そのときおもしろかったよ。オレはチケットが手に入らなくて行けなかったんだけど、友達は次の日全員ポリスのTシャツ着て学校に現れて(笑)。
それこそシンクロニシティ(笑)。学校中ポリスすげえ!ってことになってて。で、ポリスはその後すぐ解散しちゃうんだけど、これはそのときのツアーTシャツ。」
インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)