高木完(ミュージシャン)

『すべて80年代にはじまった、出会いも表現も』

ナイロン100%で遊びながら、東京ブラボーでバンドをやって、その後ピテカンとかツバキハウスでよくライヴをやって。『この夜遊びが文化だ!』みたいな(笑)

★完さんって61年生まれだから、80年は高校卒業したくらいですね。

「そうなるのかな?僕、(神奈川県)逗子で育ったんですけど、周りにパンクとか好きな人がいなくて、それで東京の学校行けば誰かいるかもと思って、お茶の水の文化学院に高等部から通ってたんですよ。で、そこって高等部と大学部がそのまま一緒だったんで、だから高校3年とか大学1年とかそういう意識が薄くて(笑)」

★ああ、ずっと続いちゃってるんだ。

「そう、高等部も大学部も3年制なんですけど、大学部でダブっちゃって4年行ったから都合7年通ってて。77年入学で、卒業が84年だから23歳まで(笑)」

★それでニューウェイヴ好きの友達とかはいたんですか?

「いましたよ。東京ブラボー(※高木完、ブラボー小松、坂本みつわを中心に活動したグループサウンズのエッセンスを感じるニューウェイヴ・バンド。81〜84年に活動)を一緒にやってた小松くんとかこの学校で会ってるし、あと米米クラブの連中とか」

★あ、そうなんだ。

「そうそう。米米クラブのリーダーとバンド一緒にやったりしてた(笑)」

★へえー。この頃はどんな音楽を聴いていたんですか?

「この頃はニューウェイヴばっかりですね。パンクとかニューウェイヴってあまり雑誌に取り上げられてなかったから、そういう言葉が出てれば何でもすぐチェックして、ライヴだったら行かなきゃ!みたいな感じで。とにかくニューウェイヴが来てから(価値観が)一気に変わっちゃったから。それまでは古い昔のロックを遡って聴いたりしてたけど、『もうそんなことしてる場合じゃないな』っていう(笑)。それまでのロックが否定されちゃったじゃないですか。だから友達が逗子の家に遊びに来たときとかも、昔のレコードは隠したりして(笑)」

★はははは。

「ビートルズとかカーペンターズとかダサイから押入に入れて(笑)。『そんなもんねーよ』みたいな(笑)。それが80年くらいだね」

★そこから東京ブラボーへはどう繋がっていくんですか?

「“ナイロン100%”って店が渋谷の宇田川町にあって、そこでたむろしてた連中なんだよね、みんな。ナイロン100%にはわりと同世代が集まって遊んだりしてて。だからゲルニカ(※戸川純と上野耕路らが81年に結成したニューウェイヴ・ユニット)とか、8 1/2 やってた(久保田)慎吾君とかとよく一緒に遊んでて。あの辺の仲間だったんだよね、東京ブラボーも」

★じゃあ遊び場は主にそこ辺りっていう?

「僕らはナイロン100%で遊びながら、東京ブラボーでバンドをやって、その後ピテカン(※原宿のクラブ/中西俊夫・桑原茂一のインタビュー参照)とかツバキハウス(※新宿歌舞伎町のニューウェイヴ系ディスコ)でよくライヴをやって。ちょうどグレース・ジョーンズの曲で“ナイトクラビング”っていうのが出て、ナイトクラブこそがカルチャーの始まる場所であるみたいなふうに『宝島』とかメディアも書いてたし、自分らもその一員であるくらいの気持ちになってた(笑)。『そうだよね! この夜遊びが文化だ!』みたいな(笑)、ある意味、都合の良い言い訳っていうか(笑)」

★ははははは。

「でも実際そこでみんなと知り合ったからね。その後DJも始めたりとか、だんだん夜遊びがイコール仕事とは言わないけど、ひとつの表現、プラス、まわりのみんなと知り会っていく社交場になっていって、それまでとは違うものになってきたんだよね、83年くらいから。そしたら、それからずーっと二十何年、そのノリで来ちゃったっていう(笑)」

★ははははは。

「ほんと、そんな感じだからねえ(笑)。さすがに最近はもうなかなか出不精になっちゃったけどね(笑)」


80年代後半は完全にヒップホップですね。もうこれ以上、音楽的進化はないだろうくらいに思っちゃったからね(笑)


★ちなみにバンドよりDJが本格的になっていくのっていつ頃なんですか?

「ピテカンが消滅するころ(※84年頃)ツバキでちょこちょこ始めてたんだよね。その辺りからバンドよりDJの方がカッコイイって思うようになってきてて。時代も変わるけど人の意識も変わるというか。その頃ってバンドやってる連中の方が頭硬くて、自分の好きなものしかやらないし聴かないんだよね。だけどDJは好きでも何でもなくても、その曲いいねって思ったら買っちゃってたでしょ」

★曲の一部分が気に入っただけで買いますからね(笑)。そうなっちゃうと、今度はレコードの買い方がまるで変わるんですよね(笑)。

「変わっちゃう変わっちゃう(笑)。でもひどかったのは、ツバキハウスでDJ始めたての頃、チャリンコのカゴにレコード入れて通ってたんだけど(笑)、何枚か“友&愛”(※貸しレコード屋さん)でレコード借りてかけてたんだよね(笑)」

★わははははは! ヒドイですねえ(笑)。

「いや、ツバキハウスって店にレコードいっぱいあったから、大体ヒット曲はあるんだけど自分のかけたいのは他にもあったし、持ってないのは借りちゃえって」

★どんなスタイルだったんですか?

「最初はもろにロックのDJ。それがだんだん打ち込みものの比重が増えていくようになっちゃって、終いにはトミーボーイ(レーベル)とかヒップホップしかかけないみたいな(笑)。だから80年代後半は完全にヒップホップですね。そのころはポップミュージックの中でもうこれ以上の音楽的進化はないだろうくらいに思っちゃってたから(笑)」

★へえー、ポップミュージックってとらえ方だったんだ。

「ダンスミュージックという意識よりも、どっちかっていうと珍種のポップミュージック、新しいロック、だよね。たとえばビートルズの『ホワイト・アルバム』の“レボリューション No.9”のかっこいい版みたいな(笑)。それがダンサブルになって言葉が乗っかって。そういう感覚に近かったかも」

★なるほどね。

「ヒップホップというかラップに行った決定打は、(藤原)ヒロシに聴かせてもらったRUN D.M.C.の“ロック・ボックス”っていう最初にヘビメタ・ギターがフィーチャーされてたシングル。それまでもラップはワイルド・スタイル(※『ワイルド・スタイル』はヒップホップ・カルチャーがどうやって誕生したのかを詳細にリポートしたセミ・ドキュメンタリー映画。83年の公開に合わせて、ラップ、DJ、ブレイク・ダンス、グラフィティー・アート等そこに登場したクルーたちが一挙来日した)が来たときにツバキハウスとかで観てたんだけど、その時は別に何とも思わなかったっていうか、『これは黒人がやるもんでしょ。日本人がやるもんじゃない』って思ってた(笑)。ロックだと置き換えられるのに、黒人音楽って自分のクリエイティヴィティに全然置き換えられなくて。でもRUN D.M.C.のそのヘビメタ・ギターが入ってるやつは、めちゃくちゃカッコイイなあって思って。そっからだね、急に目が覚めちゃったのは。それが85年くらいかなあ」


古いレコードの一部分だけ2枚使いで聴かせて、『あ、たしかにこのイントロかっこいいかも』とか、そうやって気づかされる瞬間があってすごくおもしろかった



★それで本格的にラップに行くんですね。

「そう。しかもRUN D.M.C.が出てきたら、いきなりビースティー・ボーイズもアルバム出すようになって、さらにパブリック・エネミー、デ・ラ・ソウルって、その頃そんなコラージュ・ミュージックのようなラップアルバムばっかり出てきてたでしょ、ちょうど。もう、これは!みたいな感じになっちゃって(笑)、それが加速度増した要因」

★そういう衝撃を今度は日本語にしたり日本の土壌にもってこようとTINNIE PUNX(※86年結成の高木完・藤原ヒロシのヒップホップ・ユニット)を結成したりMajor Forceレーベルを立ち上げたり(※88年)するんですよね?

「だけど、僕とか僕のまわりの人はそうだと思うんだけど、けっこう好きなものをまんま同じようにはやれないんだよね。やれる人が羨ましい。ニューウェーブの時もモロにやってりゃ良かったのに、ついついちょっとひねったりした方がいいのかなとか(笑)。そのひねりがどんどんひねくれてって、ヘンなものになっちゃって(笑)、ヒップホップん時も『これちょっと“パブリック・エネミー風”に聴こえちゃうよね』ってそこで笑っちゃう感覚?どうしてもモロには出来ないっていう。逆にもろでいいじゃんって思って作ったのは本人達にしかわからなかったり」

★なるほどね。でもそれって逆に武器でもあるんですかね? たとえばスネークマンショーはロンドンパンクをそのまんまじゃなくてブラックジョークを織り込むことで、逆に日本人にリアルに突きつけたみたいなところありますけど。

「高校のとき逗子の家でラジオでスネークマンショー聴いてたけど、ギャグの合間にパンクと50'sがかかるって、これこそパンク/ニューウェイヴだ!って普通に思ってた(笑)」

★ははははは!

「(笑)それはだからTINNIE PUNXでやってたのがヒップホップだって思ってたっていう人と同じなんだよね。『うっそー、お前ちょっとひねくれちゃったよね、それ』みたいな(笑)。そういうのと同じかもしれない(笑)」

★(笑)。

「でもニューウェイヴのときって、それまでダサいとされてたような音楽をみんなで楽しんでやるようになったり、ヒップホップも古いレコードの一部分だけ2枚使いで聴かせて、『あ、たしかにこのイントロかっこいいかも』とか、そうやって気づかされる瞬間があってすごくおもしろかったよね。先入観あったものが『あ、違うわ』ってなって、そうすると視野が拡がるっていう」

★あらたな地平が開かれる瞬間ですよね。

「うん。凝り固まっている既成概念を崩すようなものは、やっぱりいいですよね。最近はなかなかそういうのないけど、きっとまたどっかにあるし、これから自分でもそういうのをやっていって何らかの形で表現できたらいいなあって思いますね」



80’s お宝紹介

 東京ブラボーは結局メジャーデビューできなかったんだけど、ライヴはよくやってて、大貫(憲章)さんの(ツバキハウスでの)“ロンドンナイト”のイベントにも出たり、あとなぜかザ・モッズの前座やったり(笑)。82年にザ・ジャムの前座もやった。前座ばっか(笑)。でも楽しかったよ。これがその時のパンフ。新宿厚生年金会館だったね。
パブリック・エネミーが日本に最初に来たときに、ターミネーターXがステージ上から投げたフリスビー! なんだけど、これ数個しか持ってきてなくて、しかもリハーサルでほとんど飛ばしちゃって、本番では投げてないっていう(笑)。それでとにかく一個だけもらってきました(笑)。
DEVOのホンモノのスーツ。本人も持ってないらしい(笑)。メンバーから立花ハジメさんにまわって、ハジメさんからありがたくも僕のところにまわってきました(笑)。


インタビュー・写真:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)


高木完
1961年 神奈川県逗子市生まれ

高木完 10代の頃パンク・バンド、FLESHに参加。81年〜84年にかけて東京ブラボーで活動。岡野ハジメも参加しバンドとしての盛り上がりを見せる傍ら新宿ツバキハウスでDJを始めるのもこの時期。84年東京ブラボー解散。手塚眞監督の映画『星くず兄弟の伝説』に出演。このあたりからパンクからヒップホップへ傾倒し、85年、ヤン富田に誘われいとうせいこうのサポートでラップを始める。86年には藤原ヒロシとのユニット、タイニー・パンクスが本格始動、同時に次々とクラブがオープンしまさにブームの火付け役であり渦中の人となる。88年には日本初のヒップホップ・レーベル、メジャー・フォースを中西俊夫、屋敷豪太、KUDO、藤原らと設立。スチャダラパーのデビュー作『スチャダラ大作戦』のプロデュースを成功させた後、91年に初のソロ作『フルーツ・オブ・ザ・リズム』をEPIC/SONYよりリリース。以後アルバムを4枚リリースする。リミックス、プロデュースは多岐、多数。パンク出身から日本のヒップホップの牽引者の1人としてシーンを盛り上げると同時にその両方の精神とスタイルを以って独自の高木完スタイルを築いている。

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