平間 至(フォトグラファー)
『80年代には自分の表現者としての原点が常にある』
高校の頃はビョーキの人がいちばん偉い(笑)。暗い人が勝ちです(笑)

★平間さんの80年代は17歳から26歳くらいですけど、高校時代はどこに住んでいたんですか?

「住んでるところは宮城県の塩釜で、高校は仙台の高校に通ってました」

★その頃は何にいちばん興味を持ってたんですか?

「高校はもうロックどっぷりですね。そこからノイズ系にいったり」

★そうなんだ。ちなみにロックは中学時代から聴いてたんですか?

「そうですね。ただ最初はやっぱりFMをエアチェックしてビートルズの特集を録ったり。そういえば中学2年か3年のときに(セックス・)ピストルズが出てきたんですけど、で、中学のときって班に分かれるじゃないですか。そのグループ分けのときに、その班の名前を“セックス・ピストルズ”にしたんですよね(笑)」

★ははははは!

「それで学校に波紋を投げかけ(笑)。セックス・ピストルズ班(笑)」

★すごいなあ(笑)。

「で、そのあと高校生でパンクバンドやったときのバンド名は“セックス・ピストンズ”(笑)」

★ははははは。その頃ってポリスも活躍してた頃ですよね。

「そうですね。だからピストルズ、ポリス、ザ・ジャムっていうのが3大パンクでしたね。で、僕は高校の時はザ・ジャムのコピーバンドやってましたよ。それで高校前半はパンクで始まるんですけど、そこからはかなり(当時かなりマニアックな音楽を扱っていた専門誌の)『フールズメイト』の影響が大きくて、いきなりアバンギャルド方向にどんどん行っちゃうんですよ」

★なるほどね。強烈ですよね、この辺のカルチャーは。

「ほんとにまったく自分が経験したことない世界がここにあって、それでこういう(アングラな)世界にどんどんのめり込んでいくんですよね」

★じゃあこの時代ってかなり濃そうですね。

「そうですね。高校の友達がわりとそういうのを聴いてて。ノイズでホワイトハウス(※英国ノイズ界を代表する存在)っていうユニットがいたんですけど、ほんとにもう、垂れ流しノイズなんですけど(笑)、それを延々に何時間でもヘッドホンで聴き続けられる友達がいて(笑)」

★ははははは。

「さすがにそれには負けたなあ、みたいな(笑)」

★勝ち負けありますよね(笑)。

「相当ありますね(笑)。あの頃はビョーキの人がいちばん偉い(笑)。暗い人が勝ちです(笑)」

★ははははは。

「だから大学で東京に出てきていちばんショックだったのは、日大芸術学部の写真学科なんですけど、すごい期待して入ったら、誰もそういうノイズとか聴いてる人がいなくて、それで愕然とするんですよね」

★ふーん。

「何だったんだろうって(笑)。だって田舎の少年の妄想の東京だと、田舎でそのくらいなんだから、もう東京行ったらどうなるんだろうって思ってたのに………別にフツーみたいな(笑)」


実はウチはもともとクラシック系の家で、僕は『ロックは音楽じゃない』って言われた最後の世代(笑)


★(笑)じゃあ高校時代は遊びっていうとバンドやったりとか?

「でも剣道部やっていたり、ジャズ・ブルース研究会っていうサークルを自分たちで作ったり---------ジャズもブルースも全然関係ないんですけど(笑)。ただ、実はウチはもともとクラシック系の家で、エレキ(ギター)を弾くのは不良っていう最終世代なんですよ、僕までが。だから『ロックは音楽じゃない』って言われた最後の世代(笑)。バンドもやってるけど、家にエレキを置けなくて。だから練習は友達の家でやったり、あとはウチにバイオリンがあったんで、そのチューニングをギターっぽくして、それで」

★ほんと?(笑)。バイオリンということは本格的にクラシックをやってたんですか?

「うん、わりとちっちゃい頃からバイオリンとチェロを。そういえば高校の頃オーケストラもやってたなあ」

★へえー。お家は何かやってたんですか?

「ウチは塩釜ではいちばん大きな写真館で、元々ウチの祖父の代から始めてるんですけど、おじいちゃんもバイオリン弾いてて、いわゆるハイカラ世代。当時、明治生まれで写真やってること自体あんまりなかったことですよね。だから祖父の代から写真と音楽が大好きな家系っていう」

★じゃあ、ほんとにいきなりロックに走るっていうのは突然変異だったんですね(笑)。

「まあ、反抗だったんでしょうね」

★家族の反応はどうだったんですか?

「もう、眉をしかめるっていう。聴いちゃダメに近い。だからこっそり聴くっていう。でもそれもまたよかったんじゃないですかね、こっそり聴くっていうのが。ロックは僕にとってイケナイ音楽ですから(笑)」

★(笑)。

「でも学校のバンドはザ・ジャムのコピーバンドで文化祭に向けてやっていて、あと他の学校の友達ともやっていて、それはそのセックス・ピストンズがシリンダーズになるんですけど(笑)」

★ははははは。それはどんな感じのバンドなんですか?

「こっちはオリジナル。パンクで、社会風刺を一生懸命やって。『♪何でもマネしろマネをしろ、♪流行に乗り遅れるなよ、♪Do The Monkey、♪Do The Monkey』って」

★ははははは!

「ちょっとインテリ高校生が考える社会風刺みたいな」

★じゃあライヴハウスでやったりとか?

「ハウンドドッグがトリで、いちばん最初くらいにシリンダーズがやるとか」

★へえー、すごいじゃないですか。じゃあその頃いちばんなりたかったのはミュージシャンっていう?

「そうですね。でも家が写真館やってたんで、大学進学でもした後に漠然と継ごうかなあって思ってたんですけど---------でも現役のときに全部落っこっちゃって、で浪人中に今度は麻雀にはまるんですよ」

★ははははは。

「パチンコ屋に並ぶっていうのはあると思うんですけど、なぜか雀荘に開店前から並ぶっていう。まったく意味ないんですけど」

★ははははは。

「僕、理系だったんですけど、それで成績がガタガタになっちゃって、それで日芸だったらみんな納得してくれるかなって方針を変えて、それで入っちゃったんですよね」


あ、あとアイビーにも凝ってたんですよ。学校でいちばん最初にペニーローファーを履いてたのは僕なんです(笑)


★でも平間さんって、剣道部にオーケストラにバンドにって、高校時代はいろんなことやってたんですね。

「だからいろんなことやってるんで、自分で話しててもイメージ沸かないというか---------いまでもそうなんですけど、自分の友達っていうのは、ノイズはノイズの友達、剣道部は剣道部の友達っていう感じで、ヨコのつながりが今も昔もあんまりないんですよね」

★でもそれだけ間口が広いんですよね。

「間口が広いのか、どっかが分裂してるのか、よくわかんないんだけども(笑)。なんか不思議なんですよね、しゃべってても、実際どういう生活してたかっていうのが---------剣道やってオーケストラやって、パンクやって何やってって、人物像が自分でも想像つかないっていうか---------あ、あとアイビーにも凝ってたんですよ。高校時代、アイビー少年で。学校でいちばん最初にペニーローファーを履いてたのは僕なんですよ(笑)」

★ははははは!

「なんか、ますますわかんなくなっちゃうね(笑)。でもリーガルは憧れでしたよ。ボタンダウンはブルックス・ブラザースじゃないとダメだみたいな。だからメンクラ(※雑誌『メンズクラブ』)とか読んでるんですよね---------もう謎ですよ(笑)」

★(笑)。

「でもどれも本気なんですよね、自分としては」

★大学入ってからはその辺どうなったんですか?

「大学入って、期待してたらほんとに何もなくて、それで飲み会に明け暮れるんですよね。もう期待してたことはあきらめて、毎日お酒を飲んで暴れるわけですよ。その切り替えはわりと早かった(笑)」

★(笑)その大学生時代が83年から87年で、それで写真の世界に入るんですか?

「最初(大手の撮影プロダクションに)就職をして、その年の秋に辞めてニューヨークに写真の勉強をしに行って、翌年から(カメラマン伊島薫の)アシスタントとして3年間修行時代的な感じなので---------ということは、アシスタントが終わって80年代が終わるってことなのかな?なるほど!いま初めてわかった(笑)」

★じゃあ90年代からフリーランスのカメラマン時代がスタートなんですね。

「そうなんですよ。ちょうど渋谷系とばっちりシンクロして『ロッキング・オンJAPAN』とかで撮り始めて---------ヴィジュアルと音楽とサブカル的なものが一緒になって、ぐっとまわり始めるんですよね」


やっぱりこれからのテーマは“かっこ悪くて不便”ですよ(笑)


★じゃあ、いま振り返ってみると、平間さんの80年代ってどんな時代だったんですかね?

「やっぱり自分の中で80年代って、表現者としての原点が常にあるんですよね。それに、いまそこに気持ちを戻そう戻そうってところが自分の中にあるんじゃないかなあ」

★それって、いまのテクノロジーに引っ張られすぎたところとうまくバランス取ろうとしてるんですかね。

「あきらかに自分の気持ちは古いものとか歴史のあるものに向かってるっていうのがわかりますよね。僕なんかどんどん原点回帰で、カメラもレンズもどんどんどんどん遡ってるんですよ。どんどん古いカメラ、古いレンズ。デジカメは基本的に使ってない。だから世の中デジカメで便利になった分、自分の気持ちは逆に向かってるんですよね」

★なるほどね。

「機材の進歩って結局経済のためなのかってすごく感じますよね。車でも携帯でもなんでも、基本的なのものがあったら用は足りるんですよね。それを毎年毎年マイナーチェンジして新製品を出して。それって経済のためだけなんじゃないですか?」

★最近急速にそうなってますね。

「簡単だったり便利だったりするって、楽しくないんですよね、単純に。だからメールもこれからはモールス信号にするとかいいんじゃないですかね(笑)」

★それはまた、ものすごい一方通行ですね(笑)。

「ははははは。絶対楽しいと思いますよ(笑)。あと狼煙(のろし)(笑)。狼煙あがってるところでパーティーでもやってたら、すごく行きたくなるよね(笑)」

★ははははは。

「これからテーマは不便なことですよ(笑)。生きる喜びは不便から(笑)」

★そうえいばロハスとかも不便ですよね。

「いや、それじゃあなんか、かっこいいもん(笑)。80年代ってかっこ悪くなかった?」

★かっこ悪かった(笑)。

「やっぱりこれからのテーマは“かっこ悪くて不便”ですよ(笑)」


80’s お宝紹介

いまだに捨てられなくて残っている当時のカセットテープです。これは好きだった仙台のバンド「責任転嫁」のライヴを録音したテープ(笑)。あと、エコバニ(エコー&ザ・バニーメン)にニューオーダーのもありますね。これは原マスミのライヴ!けっこう持ち込んで録ってますね(笑)。管理が悪すぎて、整理整頓ができないせいで、逆に物持ちがいいんですよ(笑)。

あとこれはスロッビング・グリッスルのアルバム。ジャケットとは裏腹に、音はドロンドロンのノイズですよ。80年代のビジュアルとして象徴的な一枚です。



インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹


平間 至 ヒラマイタル(フォトグラファー)
1963年宮城県塩竈市生まれ。

 日本大学芸術学部写真学科を卒業後、ニューヨークに渡り作品制作をする。
 帰国後、カメラマン イジマカオル氏のアシスタントを経て1990年独立。
 以後、ROCKIN’ ON JAPAN、CUTなど、エディトリアルの写真を出発点に、広告やCDジャケット写真を中心に幅広く活動。
 写真集として、ミュージシャンBIKKEとの写真詩集『Hi-Bi』(2000年・メディアファクトリー)、『よろしく!』(2003年・新風舎)、『アイ・ラブ・ミーちゃん』(2004年・河出書房新社)他をリリースし、写真展として「平間至の発見/SHOGAMA人100人+α+2匹!」(2003年)他を開催している。
 最近の仕事としては、一連のTOWER RECORDS「NO MUSIC, NOLIFE.」シリーズ、大塚製薬 MATCH、KOSE(長谷川京子、小西真奈美)などの広告や、雑誌「ROCKIN’ ON JAPAN」、「CUT」、「月刊 風とロック」、また布袋寅泰、和田アキ子、サンボマスターをはじめとして多数のアーティストのCDジャケットを手掛ける。
 今後の予定としては、出身地である宮城県塩竈市にて5月に行われた舞踏家・田中泯の「塩竈場踊りー居所在所ー」の写真展を10月から塩竈市内の美術館で開催予定。また、10月から東京のアクシスギャラリーにてグループ展「ゼラチンシルバーセッション展」も開催。

ITARU HIRAMA オフィシャルサイト
http://www.itarujet.com/

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