鮎貝健(タレント/パーソナリティ)

『ロックと弟とMTV、80年代僕に影響を与えたのは(笑)』

『ザ・ベストテン』とか『ザ・トップテン』とか観て、周りの話しに馴染もうとしたんですけど(笑)

★鮎貝さんって80年で10歳だから、十代が80年代なんですね。

「思いっきりそうですね」

★2歳から9歳まではニューヨークに住んでたということですが、その後はどちらに?

「9歳の後半からずっと東京です。小学校3年の3学期のときに帰ってきて。まだ小さいからそんなに意識なくて、東京来たときも、これからここに住むんだってくらいだったんですけど。それよりも一番重要だったのは、まず周りの子たちにとけ込みたいなっていうのがあったんで、歌謡番組を見たりして」

★歌謡番組?

「『ザ・ベストテン』(※久米宏と黒柳徹子が初代司会の毎週生放送のTBS系列邦楽ランキング音楽番組)とか『ザ・トップテン』(※日本テレビ系列の同内容の対抗番組)とか観て、周りの話しに馴染もうとしたんですけど(笑)」

★(笑)。

「でも両親が厳しくて、テレビって一日30分しか観ちゃいけなかったんですよ。決まった番組を申告してから観ないといけなくて。でも幸い両親ともけっこう忙しく(笑)、弟とふたりでチャンネル奪いながら観てたんですけど」

★(笑)他にどんな番組を観てたんですか?

「学校から帰ってきたらTVK(テレビ神奈川)の“ファントマ”(※『ファンキートマト』という音楽情報番組)とか観たり、あと深夜は親が寝付いたのを見計らって『ベストヒットUSA』(※小林克也が司会の洋楽番組)とか、あとTVKの(プロモーション)ビデオだけ流してる時間帯に起きてましたね」

★じゃあ、小学校の頃にはもういろんな音楽を聴いてたんですね?

「いや、貪欲には聴いてないですけど、すごい興味を持ってて。 自分でもバンドをやりたいなって何となく思ってたんですけど」

★へえー。弟さんも音楽好きだったんですね。

「ひとつ下なんですけど、弟がそういうの早くて。音楽は弟にいろいろ教えてもらいましたね。彼がポリスとかスティングとかボブ・マーレーとかいろいろ教えてくれて。ほとんど入り口は弟ですね」

★そうなんだ。どんな弟だったんですか?

「まあ、とにかく、ものすごいロックな弟ですね」

★ワルだったっていう?

「ワルで人気者で。中学の頃は、弟はボンタンに中ランで裏地に刺繍入れてみたいな感じだったんですけど。でも僕は中1の時に買った制服をちゃんと3年間着る方でした」

★そうなんですか?

「だから弟が最近よくみんなに言うのは、『家の兄貴はね、中学の時かっこ良かったんだよね。みんなボンタン履いてるのに、兄貴だけケツに食い込むくらいスリムパンツで』って」

★ははははは。

「『カバンもこんなぶっとくて』って(笑)」


ジューダス・プリースト聴きながら家出しました。操り人形になるもんかって思いながら(笑)


★高校も日本の高校ですよね?

「弟が高校に上がるときに、父親がもう一回アメリカに赴任するっていうのが決まって、家族は弟も連れてアメリカに戻ったんですけど、僕はたまたま日本の私立の学校(※学習院高等科)に受かったんで、親戚のところに残ったんです。なのに僕、高校2年の時、87年から88年にかけて、家族に呼ばれてまたニューヨークに行ったんですよ」

★それって高校生の途中ってことですか?

「そう。高校2年の夏休みから1年間。でも当時、海外行ってる間の単位は数えられなくて、結局一年ダブるんですよね。で帰ってきてからもう一年ダブって、だから高校は5年間行きましたね」

★あ、そうなんですか? それは遊んでて?

「いやいや。話せば長いんですけど、家の父親が『アメリカで一年、家族と一緒に過ごしなさい』って中途半端なこと言い出して。僕は中学の時から制服をパツパツに着るくらい真面目だったので、そんな高校で一年間ダブるようなドロップアウトな人生は嫌だって言ったんですけど、『でもたとえばアメリカに来て、アメリカの大学に進むっていう方法もあるじゃないか』みたいなことを説得されて、それで結局アメリカの学校に編入して」

★へえー。

「で、最初の一学期が終わった頃に親が(学校に)保護者面談に行ったら、先生に『健くんはとてもいい感じですよ』って言われて満足げに帰ってきたんですよ。でもその後、親に『でもアメリカで誉められるのもいいけど、日本に帰るんだから日本の勉強もしないとダメだよ』って言われて。『いや、アメリカもいい感じだし、そのままアメリカにいるかも』みたいなこと言ったら、父親が『絶対ダメだぞ。一年したら帰すから』『え!? じゃあ何のためにダブるの?』って話になって……それが自分がグレる瞬間でしたね」

★はははは。

「マジでキレましたね。ジューダス・プリースト聴きながら家出しました」

★(笑)反逆ですね。

「あとメタリカも聴いてました。操り人形になるもんかって思いながら(笑)」

★ははははは。

「で、その保護者面談以降は、ほとんど学校に行かなくなっちゃって。学校行ってもずっと喫煙所にいるか---------当時アメリカの学校って喫煙所があったんですよ。16歳からたばこ吸っていいんで。今じゃ考えられないですけど。で、そこにはスラッシュ・メタル聴くようなやつとか、あとヤク中とか、そんなのばっかり居て」

★(笑)ああ、ふき溜まってるんだ。じゃあ東京に居た頃からすると、環境が激変しちゃったんですね。

「もう、されるがままみたいな。もう弟についていくだけですよ」

★はははは。

「弟はニューヨークですでに縄張り作って悪い仲間いっぱい連れてて(笑)。で、バンド始めてて、ヴォーカルが居ないんだか辞めるんだかって話になってて。それで(恐る恐る)『……よろしくお願いします』ってオレが(ヴォーカルに)入ったんですけど(笑)」

★(笑)それ、どんなバンドだったんですか?

「もう、LAメタル全開です」

★(笑)ヘヴィメタルが好きだったんですね。

「いや、周りがメタルの奴ばっかりだったからで」

★でも、とにかく人生そこで大きく変わったという。

「そうですね。NYでそれから僕は引きこもりがちになって、でもいわゆる人気番組とかも一切観ないで、MTVばっかり観てましたね。何回リピート(放送)されてもずっとMTVしか観なくて。そこからロックに目覚めて。どっぷりと行きましたね。調度80年代も後半に入ってきて、LAメタルのポイズンとか聴くようになって。だからエアロスミスをMTVで観つつ、個人ではポイズン(のアルバムを)聴いて、(バンドの)勉強でドッケンとかを聴いてました」


3人でバンド始めたんです。もうスーパー高校生バンドでしたよ。サーカスみたいな---------速い速い!みたいな(笑)



★それでNYから一年で日本に戻るんですね?

「そうです。一年学年落として。ショックでしたよ。ほんと荒れちゃって。預けられてた親戚の家にもすごい苦情が来るし、家には帰って来ないしみたいな……そんな悪いことはしてないんですけどね」

★(笑)。

「その頃に居酒屋で知り合った歳の同じドラムの子がギタリスト紹介してくれて、3人でバンド始めたんです。で、ベーシストを探して、ウチの弟を呼んでみたいな感じで」

★そのバンドは本格的なバンドだったんですか?

「そうですね。もうスーパー高校生バンドでしたよ。サーカスみたいな---------速い速い!みたいな(笑)」

★ははははは。人気はあったんですか?

「自分で言うのも何ですけど、最強でしたね。Bump’n Grind(バンプン・グラインド)っていうバンドで、実はまだ解散してないんですよ。ギターの奴は、すごいワルイ奴なのに、ギターだけはメチャメチャ上手くて。今でもたぶんテクニック的に、日本であいつ以上に弾ける奴はいないんじゃないかって。サーカスみたいに弾きまくる“日本一の速弾き野郎”ですよ(笑)」

★じゃあ、とにかくNYから帰ってからはバンドが生活の中心だ。

「そうですね。その頃ツイステッド・シスターのプロモーション・ビデオで、お父さん役の役者さんが出てきて『このロクデナシが! お前は何をやりたいんだ!』って言ったときに、子供が振り返っていきなり声が(ヴォーカルの)ディー・シュナイダーの低い声で『I wanna Rock !』って言うんですけど---------それに影響されて、お母さんに台所で『そんなので将来どうするの!』って言われたときに『I wanna Rock !』って言っちゃったことがあって」

★わははははは!

「その時の母の寂しそうな表情がもう……(笑)」

★(笑)でもそんなロックな方向性が、後のMTV JAPANでのVJに繋がっていくんですね。

「というか、これは92年くらいですけど、電車の吊り広告で『”MTVジャパン”が始まるのでVJ大募集』っていうのを見て、『すごいたくさん応募する人いるんだろうな』と思いながら眺めてたら、電車の中でたまたま一緒に居て声をかけて来た人がMTVの人で。それで僕のMTVでのVJが始まるんですよ」

★へえー! 応募したわけじゃないんですか?

「違うんですよ」

★すごい偶然というか、ラッキーですねえ。

「はい、ラッキーですね。ちなみにその時に電車で聴いてたのはデンジャー・デンジャーでした(笑)」



80’s お宝紹介

 メタルベルトはいま、結構普通に売ってますけど、当時は高価なもので、限られたところでしか売ってなくて。お茶の水の“ダブルデッカー”とか。“ロックの日”(6月9日)に半額セールやってたんですよ(笑)。原宿にもあった他の店には“メタル福袋”みたいなのもあって(笑)、買うと聞いたこともないメタルバンドのTシャツとか、ロクなもの入ってなかったですね(笑)。
 あと、古着屋さんで1万円で買ったライダースの革ジャン。なぜか当時のは肩が張ってるんですよね(笑)。肩パットが入ってて(笑)。さすがに今は着てませんけど、でもまた着るタイミングが来るかもと思って取っておいてあるんです。

インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹


鮎貝健
1970年12月14日生まれ
http://www.grind-org.co.jp/

鮎貝健 ドイツ人と日本人のハーフ。父親の仕事の関係で2〜9歳までニューヨークで過ごし、1993年、大学在学中にMTV JAPANのVJ(ビデオジョッキー)としてデビュー。以後、テレビ、ラジオ、ナレーション、映画出演から音楽活動まで幅広く活動中。
「ジャンクSPORTS」(CX)、「JAPAN COUNTDOWN」(TX)などのナレーションでも注目を浴び、TV-CMの声も多数。
 また音楽面では、ロックバンドBUMP'N GRINDを結成し、ヴォーカル担当。2枚のアルバムをリリース。現在は元ZEPPET STOREの柳田英輝らと結成したTOBYASを中心に活動中。
 他にもTHE YELLOW MONKEY『LOVE LOVE SHOW (English Version)』の英詞をボーカル吉井和哉と共作、 織田裕二のアルバム『11Colors』への楽曲提供、hide、布袋寅泰、B'zの松本孝弘をはじめ、多くのアーティストとライヴやレコーディングなどを通して、様々な形でコラボレートしている。
 俳優デビューは、映画『BLISTER!』(2000年ゆうばり国際音楽祭ファンタランド大賞受賞)。フリーボーン役で出演すると同時に、サウンド・トラックにも楽曲を提供する。
 英語、ドイツ語を得意とし、ハードロック系の豊富な知識で、2005年4月から放送の日本初のヘビメタ・バラエティー番組『ヘビメタさん』、その実質的な後継番組で2006年4月から放送の『ROCK FUJIYAMA (ロックフジヤマ)』(共にテレビ東京)のメインパーソナリティとして話題になる。同番組は2007年3月26日をもって惜しまれつつ終了した。

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