飯野賢治(fyto代表/ゲームクリエーター)

『80年代にすべてが始まった。だから僕は80年代生まれ』

秋葉原で下りたらすぐラジオ会館に行って。そこにもう週の半分くらい行ってた

★飯野さんは80年に小学校5年くらいですけど、その頃はどこに住んでたんですか?

「僕は(東京都)荒川区生まれなんですけど、家のおやじの会社が引っ越した都合で埼玉で暮らしていて」

★じゃあ埼玉の小学校に行ってたんですね。

「ただ僕ね、小5小6の頃って、半分くらいしか学校行ってないんですよ(笑)。いまだったらたぶんダメだと思うんだけど、きっと当時は甘かったんだと思うんだ」

★そうかなあ(笑)。で、何やってたんですか?

「東京に行ってたの(笑)。僕、埼玉で暮らしてるのが嫌で、東京までの定期券を持ってたのね。それで秋葉原まで1時間ちょっとかかってたんじゃないかな?」

★ていうか、なんでそんな定期券持ってたんですか?(笑)。

「いや、東京にほんと行きたかったんで(笑)。当時シンセサイザーとかコンピュータって東京にしかなかったのね。埼玉の楽器屋にもあったけど、触らせてもらえないとか。あと秋葉原には何かがあるっていう想いが強くあったわけですよ」

★へえー。

「で、家の親父って寛容だったんで、そこはちゃんと親の許諾を取って。『学校に行かないで東京に行っていいか』って言って。だから小学校に行くか秋葉原に行くかっていう毎日だったんですよ」

★秋葉原ではどんなふうに遊んでたんですか?

「とにかくパソコンに触れて。あとシンセサイザー。で、“ラジオ会館”(※家電量販店ビル)っていうのが僕の想い出の場所で、秋葉原で下りたらすぐラジオ会館に行って。そこの7階に“ビットイン”っていうショップがあって、そこにもう週の半分くらい行ってたのかなあ」

★へえー。

「秋葉原行くと海外のゲームもいっぱいデモプレイできるんで、ほんと朝から行って、その日の内に解いちゃうってくらいやってましたね---------でもあの頃ってやっぱり(お店の人が)やさしかったなあ。ゲームをタダで遊ばしてくれて、エンディングまで行ってもいいんだもんね」

★じゃあコンピュータに興味をもったきっかけはゲームから?

「それとYMOですね。だからコンピュータ買ったのも、音楽が元々の目的なんですよ。家にヤマハのオルガンはあったんだけど、それは自動演奏できないし、なんか音質が暖か過ぎなのね(笑)。そんなのもあって、なんかその内、YMOのあの速いフレーズと電子音をとにかく何とかしたくて」

★そうなんだ。

「それで親父もコンピュータに興味持ってたんで、すぐ乗ってくれて、そんな金持ちの家でもないんだけど無理して買ってくれて。で、そのNECのPC6001をオルガンの上に置いて、僕がこうスペースキーを叩くと、チッチッチッチッてカウントの後にYMOの曲がシークエンスされるわけですよ。その上で僕がオルガンでメロディーを弾くっていう---------もうなんかね、キタッ!て感じで(笑)」

★ははははは!

「なんて気持ちがいいんだろう!って思って(笑)。そうこうしてる内に学校行かなくなっちゃうんだよね」

★それが小6のあたり?

「はい。81年ですね」


よくレコードの針がすり切れるっていう言葉があるけど、ほんとに僕、YMOをすり切れるくらい聴いてて


★もともとYMOを知るきっかけって何なんですか?

「僕は電子音がとにかく好きで。よくゲームセンターにカセット(テープレコーダー)持っていって、インベーダーゲームの音とかパックマンの音とかを録音してたんですよ。それで自分でゲーム音の編集カセット(テープ)を作ってみんなに配ったり。ただ、どうしても完璧な音が録れないんでノイズが入っちゃうじゃないですか。そんなときにYMOというバンドが78年にデビューをして、その中にコンピュータゲームの音が入ってるって聞いたのが、きっかけなんですよ」

★へえー。

「で、聴いたら、何のノイズもなく電子音が入っていて、しかも楽曲も素晴らしかったっていう。それがYMOの入り口で、その後はテクノポリス”(79年10月リリース)とか“ライディーン”(80年6月リリース)“がヒットして、僕もまあ一緒になって浮かれてたわけですよ。と思って、小5の終わり頃に僕は次のアルバムの『BGM』(81年3月リリース)を予約して買ったんですけど、そしたら(予想と全然違って)まったく違うバンドのアルバムになってたんですよね」

★いきなり暗く重くなったよね。

「だから初めはなんか『何だこりゃ?』みたいな。誰か辞めたのかなとか、いったい何があったんだろう?って思ってて、一回目に聴いたときはあんまり好きになれなかったんですよ。気持ち悪かったし」

★うんうん。

「とはいえ当時ってLP1枚買うのも高くて大変だから、割と何度も聴いてくんですけど、ていう中で『あ、これはちょっと、何かよくわかんないけど、すごい何かが潜んでるな』と思って。それでずーっと聴いてる内に異様に頭から離れなくなっちゃって、頭がおかしくなるくらいになって---------よくレコードの針がすり切れるっていう言葉があるけど、ほんとに僕、すり切れるくらい聴いてて-----------ていう中で、僕の中にあたらしい音楽に対するベースが出来るわけですよ。ナンパなことじゃなくて、わりと深いところまで初めて分かって、そういう状態が自分の中に出来たところで『テクノデリック』(81年11月リリース)が来るわけですよ。これはね、もう、一発目からキタキタッ!って感じで(笑)」

★(笑)。

「もう、それが大きかったですね」

★へえー。

「あれだけ“テクノポリス”とか“ライディーン”がヒットしたくせに、次にこれを持ってくるなんてすごいなって。そういうやり方ってとにかくかっこいいなあって思ったわけですよ。まさか、こんな日本人がいるとはっていうか」

★なるほどね。

「81年って他にもあって、僕、パソコンのプログラムのコンテストに応募したら受賞して、50数万円もらったんですよ。その賞って、高校中退した僕が社会に出られるきっかけにもなるんですけど、それも81年。あと初のスペースシャトルが上がったのも81年でしょ? 81年ってとにかくいろいろあり過ぎちゃって、僕ちょっと頭がおかしくなるくらいだった(笑)」


80年代の前半・中盤って人生が動くきっかけになるようなことがいっぱい起こって、次は何が起こるんだろうってドキドキしてましたね



★中学ではどうだったんですか?

「中学はちゃんと通ってましたよ。ただパソコンはぱったり止めちゃうんですよ」

★あ、そうなんですか?

「音楽がもっと好きになって。あと、中1の文化祭で僕がパソコンを使った作品を作ったんですけど、それがね、評価がすごく悪くて、それもきっかけになって。『もう、いいや』って。僕ね、なんかちょっとナメた視点というか、そういう感じだったんですよ(笑)。『これをわかってくれないんだ』みたいな」

★へえー。それで音楽の方に?

「そう。僕バスケ(ットボール)部だったんですけど、腰をひねって病院通うようになってバスケ部には行けなくなって、それでブラバン(ブラスバンド部)に無理矢理入れられたんですよ」

★そうなんだ。

「実はブラバンはとにかく大きな経験で。それまでは電子音が大好きで、スピーカーに耳つけて脳が痺れるくらいの感じで聴いてたんですけど、それがブラバンに初めて行ったときに僕を乗り気にさせるために僕のために演奏してくれて。いまだに覚えているのは、虫がいっぱいいるみたいだなって思ったんですよ。クラリネットっていう虫とか、トロンボーンって虫とか、いろんな虫が合奏しているように聴こえて、こりゃちょっとおもしろいなって思って」

★へえー。

「それはだから、50人が楽器を持って演奏するから、スピーカーが50台あるみたいなものじゃないですか。もちろんスピーカーどころじゃない倍音も持ってるわけで。でもそれぞれの楽器は違う音が出ていて。それがけっこう衝撃で」

★なるほどね。

「僕それまでまったくクラシックに興味なかったんですけど、そこからめちゃくちゃはまるんですよ。ベートーベンとかチャイコフスキーのスコアとか買ってきて、自分でそのブロック構造を解体していったり、そのサウンドの作り方を勉強していったり、エリック・サティとかバルトークとか、けっこうドっぱまって行くんですよ」

★へえー。

「だから中学校は完全にそればっかりですね」

★高校時代は?

「高校はすぐ行かなくなっちゃって、1年生のときは授業日数ぎりぎりで、2年生に上がった途端にまた行かなくなって、で、すぐ辞めちゃったんですけど。あっと言う間ですね」

★え、じゃあ高校辞めてからはどうしてたんですか?

「バイトのお金でシンセサイザー買ったり、日本中旅行してみたり。北海道に行ったら帰りのお金がなくなっちゃったり(笑)。で、そういう感じでぶらぶらしてたんですけど、こんなことやってても一生生きていけるわけないんで、その後すぐ18歳でゲーム会社に入れてもらって。それが88年。それで1年間くらいその会社で勤めて、その後はもう独立してるんで、そこからはもう忙しくて、映画も行かない、音楽も聴かない、マンガも買わない、小説も買わない、テレビも観ないっていう感じだから、インプットはゼロですね」

★へえー、もう起業するんだ。

「そう、89年。19歳。ちょうどバブルの真っ直中。日本経済は平均株価が3万8千円の頃ですよ。ここは行くぞ!って。でもバブル崩壊でタイヘンな目に遭うんですけど」

★ははははは。それはゲーム会社なんですか?

「ゲームの開発会社ですね。その時にはじめて行ったクライアントにいた方が、いまの任天堂の社長っていう。深いねえ(笑)」

★80年代後半は、じゃあかなり激動ですね。

「ただそんな感じなんで、インプットも正直そんなになくて---------やっぱり80年代は前半、特に初めの頃ですね。だから80年代の前半・中盤って人生が動くきっかけになるようなことがいっぱい起こって、次は何が起こるんだろうなってドキドキしてましたね。いまだに覚えてるのは、ウォークマンをしてYMOの曲を聴きながら秋葉原を歩いてたら、初めて見る大きなオーロラヴィジョンにニュースが映ってて---------YMOの音楽を通したその光景を見て『これけっこう来てるな!』って思って。可能性は無限大なんだって」



80’s お宝紹介

これはYAMAHAのQX21のデータディスク。ポップアップっ て曲が入ってる。
QX21は僕が初めて買ったシーケンサー(音源を内蔵していない)で外部シーケンサーなんですよ。シンセにシーケンサーが付いてるなんて90年代以降だから、これを外部に接続するしか自動演奏する方法がなかったんです。それもすごいよね(笑)。買ったのは16歳の時で、このポップアップを作ったのは18歳の時かな?でもここに「track 1」「track 2」って書いてあるけど、全く今のオレの字と変わらないね(笑)。さっき書いたみたい、18年前なのに(笑)。「字は人を表す」って言うけど、オレ成長してないのかなあ(笑)。
このパンフはスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』。
本公開は1968年だから、まだ僕は生まれてないんだけど、10歳のときに再公開で(映画館の)テアトル東京に親父と観に行って。この頃はほぼ毎週末、親父に連れられて映画を観に行ってましたね。普通、昔の映画ってどの映画観ても古びてるじゃない?これはいま観てもかっこいいよね。無駄なところがない。音楽も普遍的なものだし。アーサー・C・クラークの原作があったとはいえ、キューブリックは何かヴィジョンを見ちゃったんだろうね。ぶっちぎり。

インタビュー:井村純平(TOKIO DROME/WISDOM)
写真:松下茂樹


飯野賢治/Kenji Eno(いいのけんじ)
株式会社フロムイエロートゥオレンジ代表取締役・ゲームクリエイター
1970年5月5日生まれ

飯野賢治 高校を中退後、ゲームソフトウェアの制作会社に入社、1年後退社し、独立。19歳でゲームソフトの制作会社を設立する。
1994年には株式会社ワープ設立、代表取締役社長に就任。ゲームソフトウェアの開発、出版を行う。 『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』といった代表作を中心に、家庭用ゲームソフトウェアを全世界で出版。売上は1996年までに100万本、1999年までに合計200万本以上の売上を記録した。
『Dの食卓』は国内のマルチメディア最高賞である「マルチメディアグランプリ'95 通産大臣賞」を受賞。 『エネミー・ゼロ』は世界最大規模のショウであるE3において「'97 BEST SATURN GAME OF E3」を受賞。
『リアルサウンド〜風のリグレット』は「マルチメディアグランプリ'97 パッケージゲーム賞」、「ジャパン・ゲーム・オブ・ザ・イヤー'98 サウンド賞」を受賞。
1997年には文化学会大賞を受賞。
1998年には『ビジネス・ウィーク』誌が選ぶアジアの50人(THE STARS OF ASIA)に選ばれた。
2000年スーパーワープ設立、代表取締役社長に就任。
2001年に社名を株式会社フロムイエロートゥオレンジに変更。
2003年には、講談社発行の文芸誌『ファウスト』創刊号にて小説家デビューも果たしている。

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